2009年07月26日

徳川忠長の墓     (群馬県高崎市)

群馬県高崎市にある徳川忠長の墓に行ってきました。

<大信寺>
大信寺 高崎.jpg
住所:群馬県高崎市通町75
駐車場あり

徳川忠長は1606年、徳川秀忠の子として生まれ、幼名を国松と
言った。三代将軍家光の弟であったが、幼少の頃から才気は兄より
優れていたため父母は弟の方をよりかわいがり、これが原因で家光
に疎まれる事になったと言われる。
忠長は1616年、甲斐の大名となり、のち信濃、駿河、遠江を
加えられ1624年55万石の禄高を領する事となり駿府城に住
した。このことから通称駿河大納言と呼ばれた。
しかし秀忠の死後、数々の乱行があったという理由により1631年
甲府、翌年高崎城に幽閉され、時の高崎城主安藤重長による数度
の助命嘆願にもかかわらず自刃を命ぜられ、1633年28才の若さ
でその生涯を終えた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高崎駅からほど近い大信寺というお寺にある徳川忠長の墓に行って
きました。ここも相当昔、大河ドラマ『徳川葵三代』を見て訪問し
て以来久しぶりの訪問となりました。
その時は、お墓の近くまで近づけず、遠巻きに見て終了していました。

その後、高崎市が整備したという話を聞いていました。
が、しかし、今回もお墓への入口は塞がれていました(>_<)
お寺の方に言えば、入れてもらえるのかもしれませんが、そこまで
する勇気もなく、またもや遠くから参拝です。

徳川忠長の墓.jpg

徳川忠長は、家光の弟ですが、よほど歴史が好きな人じゃないと
知らない様な人物ですね。その生涯は家光との関係で不遇なもので
した。まあ家光もそうですし、家光を支援していた春日局の力も
あったのでしょう。
秀忠の隠し子であった保科正之も含め、この兄弟の話は思うところが
ありますね。

せっかく解説板とかも整備されてるので、いつでも一般の方が参拝
出来るようにしてもらいたいものです。

著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html

徳川忠長の墓
posted by 南行 at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 群馬県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック