<分倍河原古戦場>

住所:東京都府中市分梅町2−59
駐車場なし
1274年、1281年の元寇を経験した頃、北条執権政治は根底
からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したは、これがかえ
って政権破滅の速度を早めた。
1333年5月、新田義貞は北条高時を鎌倉に攻めるため、上野
武蔵、越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、小手指ヶ原
で北条方の副将長崎高重、桜田貞国を破りさらに久米川の戦いで
優勢にたった。北条方は分倍に陣をしき北条泰家を総帥として新田
勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時武蔵
国分寺は新田勢のために焼失させられたという。
その夜(5月15日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が
多く協力し、16日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って
一路鎌倉を攻め、22日に鎌倉幕府は滅亡した。
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新田義貞の鎌倉攻めの有名な戦いである、分倍河原の戦い。
今は、公園になっています。
公園には石碑がたち、分倍河原の戦いに関し、上の様な解説が書いて
ありました。
鎌倉攻めに関しては新田義貞は破竹の勢いで鎌倉まで攻め込んで活躍
しましたね。個人的にはこの時焼失した武蔵国分寺が残念でなりま
せんが(^^;
京王線分倍河原駅前には新田義貞の銅像があります。
平成14年2月6日訪問。

銅像めぐり
http://rover.seesaa.net/article/142026310.html