2014年05月28日

関ヶ原古戦場     (岐阜県関ヶ原町)

平成23年5月3日、関ヶ原古戦場めぐりをしました。

<関ヶ原古戦場>
関ヶ原の戦い 開戦地.jpg
住所:岐阜県関ヶ原町
駐車場(各所にあり)

<現地解説>
天下分け目の合戦で有名な関ヶ原の戦いは、豊臣と徳川がその運命をかけた一大
決戦であった。1600年9月15日午前8時頃、井伊、松平が先ず進出して
宇喜多の隊に向かって戦端を開いた。これを見た福島の隊は宇喜多の隊を攻撃
した。かくて戦機を得た東軍右翼の諸隊は石田、小西の隊を攻撃、左翼の藤堂
、京極隊も大谷の隊と抗戦し、戦はいよいよたけなわとなった。
家康は最初桃配山にあったが、午前11時頃には、陣場野に進出して全軍を指揮
した。
松尾山の小早川秀秋はかねてから家康に反応の約があったので、遂に反旗を翻し、
大谷の隊を突いてきた。
小早川等の反応で大谷の隊が壊滅すると形成は逆転した。
そして最後に島津維新(島津義弘)は東軍の中央を突破し、伊勢街道への脱出に
成功した。その結果東軍が大勝し、徳川家康は2世紀半に渡る泰平の世を実現
することになった。

<関ヶ原合戦・全体布陣図>
http://www.rekimin-sekigahara.jp/main/battle_of_sekigahara/progress/pdf/05.pdf

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
関ヶ原古戦場に行ってきました。
関ヶ原には何度も行ってましたが、家康の陣、三成の陣など個別に訪問して
全体を歩くことがありませんでした。この日はゆっくり巡ってみようという
事でいろいろまわりました。
関ヶ原古戦場はかなり広いエリアに陣などが点在しているので、車があった
方が良いと思います。
合戦のいきさつや、合戦の形勢等については、僕がいまさらここで書く必要も
無いかと思いますので割愛いたします。
ここでは現地写真を中心に書いて行きます。

<石田三成の陣>
関ヶ原の戦い 石田三成の陣.jpg
まずは石田三成の陣(関ケ原町大字関ケ原4008)です。

[ここに地図が表示されます]


関ヶ原の戦い 石田三成の陣2.jpg

ここは笹尾山の三成の陣。関ヶ原の戦場を西側から見渡せる位置関係にあります。
南側には松尾山の小早川秀秋の陣を見ることが出来ます。

<島左近の陣>
関ヶ原の戦い 島左近の陣.jpg
三成の右腕、島左近の陣です。
三成の陣の前に布陣しています。島左近は三成が家禄の半分を与えてまでも
士官させたと言われる人物。関ヶ原前日の杭瀬川の戦いで、中村隊を破り、
本戦では石田隊の先手として活躍。黒田・田中らと奮戦後、家康本陣に迫ろう
としましたは、銃弾を受けて討ち死にしました。

<家康最初の陣・桃配山>
関ヶ原の戦い ieyasu の陣.jpg

関ヶ原の戦い 家康最初の陣.jpg
対する徳川家康の陣です。最初、桃配山に陣取ります。
三成とは反対側、関ヶ原を東から見渡せる位置になります。
(関ケ原町大字野上1424-1)
[ここに地図が表示されます]

桃配山は、壬申の乱のおり、大海人皇子が陣を敷き桃を配ってその後
戦に勝利したという場所です。家康はこの故事にあやかってここに陣
どったという事です。

<家康最後の陣>
関ヶ原の戦い 家康最後の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原959-2
[ここに地図が表示されます]

家康は、桃配山を下り、そこから数百メートル離れたこの地に陣を
移します。ここから小早川秀秋に兵を動かすよう発砲したという事
です。

<田中吉政の陣>
関ヶ原の戦い 田中吉政の陣.jpg
[ここに地図が表示されます]

家康最後の陣のすぐ近くに田中吉政の陣があります。
東軍に属し、3000の兵で布陣しています。
石田三成が自らの意志で、残党狩りの吉政配下の手に落ちたのは合戦後
6日後のことでした。

<井伊直政・松平忠吉の陣>
関ヶ原の戦い 井伊直政・松平忠吉の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原908-3
[ここに地図が表示されます]

井伊直政と家康の四男松平忠吉が6000の兵で布陣。
午前8時頃、本多忠勝より開戦を促され、直政・忠吉を擁して
前進し、宇喜多秀家の前面に出たが、先鋒は福島正則であると咎められ、
方向を転じて島津義弘の隊に攻撃し開戦の火蓋が切られた。

<福島正則の陣>
関ヶ原の戦い 福島正則の陣.jpg
住所:関ケ原町大字松尾111
[ここに地図が表示されます]

東軍の先鋒となった福島正則は春日神社に約6000の兵で布陣します。
ここで南天満山の宇喜多秀家と対陣しています。
一番鉄砲の功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、
宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、一進一退の攻防戦が続きました。
春日神社境内にそびえる樹齢800年の「月見の宮大杉」は関ケ原合戦屏風
にも描かれています。

<本多忠勝の陣>
関ヶ原の戦い 本多忠勝の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原3441-1
[ここに地図が表示されます]

家康の軍監として参陣。家康の陣(桃配山)を背にして麾下の隊を指揮した。
福島・黒田隊など先陣が進撃し、金森・織田等の諸隊が前進すると忠勝も先陣
の井伊直政に負けじと梨木川北方で島津隊と奮戦した。

<京極高知・藤堂高虎の陣>
関ヶ原の戦い 藤堂高虎・京極高知の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原2491-101
[ここに地図が表示されます]

藤堂・京極隊は中山道の南に位置する柴井に陣し、松尾山や山中村など
の西軍に備えました。ところが小早川秀秋隊の寝返りで戦況は一変。
大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘のまっただ中へ本両隊が突入し、これに
呼応した脇坂隊らの攻勢も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれていきまし
た。

<島津義弘の陣>
関ヶ原の戦い 島津義弘の陣.jpg

関ヶ原の戦い 島津義弘の陣2.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原1869-3
[ここに地図が表示されます]

戦国の雄島津軍団約1000を率いた島津義弘は北国街道をおさえる
為、ここ小池村に布陣しました。
西軍がことごとく敗退する中「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せつける
ため現代までも語り継がれる敵中突破にて関ヶ原の戦場を離脱します。

<島津豊久の碑>
関ヶ原の戦い 島津豊久の碑.jpg
住所:大垣市上石津町牧田741
[ここに地図が表示されます]

島津豊久は島津義弘の甥にあたります。
関ヶ原の戦い終盤、敵中突破で伊勢街道を逃げる島津軍に
敵の追撃が襲いかかります。そんな中、豊久の隊はしんがり戦
を戦い、この地で討ち死にします。この奮戦により、島津義弘は
戦線を離脱する事が出来ました。
ここには島津豊久の碑及び墓があります。

<小西行長の陣>
関ヶ原の戦い 小西行長の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原2368-1
[ここに地図が表示されます]

小西行長はここ北天満山に6000の兵を率いて参戦しました。
午前8時頃、戦闘開始の烽火をあげ、味方に合図すると共に、西軍の主力
の一つとして勇戦しています。
しかし小早川らの裏切りの衝撃は小西隊の混乱をまねき、それに乗じた本多隊
の襲撃で兵士達が敗走しはじめたのは午後1時すぎの事でした。

<宇喜多秀家の陣>
関ヶ原の戦い 宇喜多秀家の陣.jpg
住所:関ケ原町大字関ケ原4146-1
[ここに地図が表示されます]


西軍の副大将の秀家は17000の兵を配して中山道を押さえました。
午前8時ころ東軍の福島勢の猛攻から戦いは始まり、秀家の前衛明石全登の
隊との激突となりました。
宮本武蔵が奮戦したのもこの辺りと言われています。

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

古戦場めぐり
http://rover.seesaa.net/article/159539121.html

平成23年GWの旅
http://rover.seesaa.net/article/199314988.html
posted by 南行 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 岐阜県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/398101564
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック