<後藤又兵衛の墓>
住所:大分県中津市耶馬溪町大字金吉
駐車場あり(無料)
後藤又兵衛は1560年、播州で生まれ父基国は同じ播磨国三木城主
別所家の家臣で誠実果敢の武将であったが、又兵衛がまだ少年の頃、
若くして自刃した。父の遺言により、黒田官兵衛に仕えて心身ともに
鍛え、その心の剛胆さと剣槍の連術により、名実共に天下に聞こえた
勇将となった。1587年秀吉の九州征討のとき、黒田官兵衛について
南下し、黒田が豊前中津に入封して国内の土豪を鎮定するとき、城井
谷の剛将宇都宮鎮房を降伏させた功労が大であったという。
黒田官兵衛・長政親子が筑前博多へ入封すると黒田二十四将の猛将と
して1万6000石を与えられて大隈城主となったが、黒亜親子とも
間隙を生じて浪人となり、細川忠興をはじめ諸国の大名から招かれた
がこれを受けず、旧主の邪魔などがあってことごとく辞し、大坂の陣
がおこると秀頼の招きに応じて入城。夏の陣では大和方面に出馬して
戦功があったが、道明寺河原で討ち死にしたと伝えられる。
しかし一説には大坂方の敗戦後は放浪の旅で西下し、縁故のあるこの
地へ落ち延び隠棲の中で、豊臣家の再興を期していたが風の便りに
豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えられる。
しばらく時が経ち、村人は自刃した武士が後藤又兵衛であった事を知り
墓を建てたが後に伊福茂助が昔の墓の荒廃を見かねて立て替えたのが
宝暦13年(1762年)であった。
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大分県の耶馬溪の奥地にある後藤又兵衛の墓を参拝してきました。
何でこんな所にと思う場所に又兵衛の墓がありました。
まわりの雰囲気はこんな感じの山の中です。
この墓も又兵衛は実は生きていたという伝説に基づくもので、実際どうな
のかよく分からないものです。
こちらがお墓。
「義刃智光居士」と書いてあり、どこにも後藤又兵衛の名前はありません。
徳川の世ゆえに、又兵衛の名前を出すのを控えたものと思われます。
一城の主になりながら、最期は大坂の陣での末路。後藤又兵衛の生き方には
波瀾万丈というか、まさに武士というものを感じるものがあります。
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