<薩摩義士の碑>
住所:鹿児島県鹿児島市城山町
駐車場なし
<現地解説>
岐阜県に木曽川治水工事の犠牲者を祀る神社があります。
治水神社といい、今も1755年の薩摩藩による工事に感謝する人々の参拝が
たえません。愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野は、今でこそ豊かな土地
に生まれ変わりましたが、昔は川床の高さが異なる木曽川、長良川、揖斐川の
3河川が合流し、度々大水害を引き起こしました。
1753年、幕府は薩摩藩にこの治水工事を命じ、藩はさっそく家老の平田靱負を総奉行
に任じ、約1000名を派遣しました。
平田は大坂の商人から22万両を借り工事に取りかかりましたが、梅雨の増水でせっか
く築いた堤が切れ、工事は困難を極めました。
さらに監督する幕府の役人の横暴や疫病の発生により、自刃、病死する者が続出。
完成までの1年3ヶ月の間に犠牲者は84名を数え、工費も40万両に達していた
のです。
平田総奉行はその責めを一身におい自刃。藩政時代は幕府への遠慮から彼らの偉業
は公表されず1920年ようやく慰霊碑が建ち、義士としてたたえられました。
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江戸時代中期に木曽、長良、揖斐の3河川に関する治水工事を薩摩藩が行った事は
以前三重県のどこかの博物館に行ったときに見て知っておりました。
そして、大勢の犠牲者を出したことも、そこで知りました。
鹿児島では幕府に配慮し、平田靱負の件は公表されず、大正時代になってやっと
慰霊碑が作られた事は今回初めて知りました。
鹿児島市の鶴丸城の脇に薩摩義士の碑として祀られています。
また平田靱負の墓は京都市内の大黒寺に寺田屋事件の犠牲者の墓と並ぶように
あります。
平成26年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/403847749.html
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