2014年11月26日

四境戦争/芸州口古戦場碑     (広島県大竹市)

広島県大竹市にある芸州口古戦場に行ってきました。

<芸州口古戦場>
四境戦争 芸州口古戦場.jpg
住所:広島県大竹市新町1丁目
駐車場なし

<現地解説>
芸州大竹口に揃った幕府の軍勢は彦根藩、高田藩を中心とした3万、
小瀬川を挟んで対峙する岩国軍の実に5倍であった。
1866年6月14日未明、彦根軍は使番竹原七郎平と曽根佐十郎の
二騎に小瀬川を渡らせる。岩国軍は小瀬川の半ばにして狙撃、戦いの
火ぶたがきって落とされた。
数で圧倒的に不利と見られた岩国軍だったが遊軍との挟撃作戦が功を
奏して彦根軍を撃退、小瀬川は血の海になった。
これは甲冑に陣羽織といった旧態依然の幕府軍に対し、長州軍が
西洋式の砲銃戦を取り込んだ事による勝利であった。
その後幕府は勝海舟をつかわして何とか芸州口の戦いを休戦。
引き分けとしたものの、その他の大島口、石州口、小倉口では完敗と
いう有様で260年以上も続いた徳川の時代が崩壊する予兆であった。

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JR大竹駅前にある芸州口古戦場の碑を見に行ってきました。
実際の古戦場は駅から数キロいった小瀬川で、この小瀬川が今も広島県と山口県の
県境になります。

第二次長州征討(長州側では四境戦争)の古戦場のひとつ芸州口の戦いです。
交戦勢力は、長州側が岩国藩(吉川氏)、幕府側が彦根藩(井伊氏)、高田藩
(榊原氏)を中心とした軍勢です。

井伊家は徳川譜代筆頭で、小牧長久手の戦いの功績により、その後徳川の戦いに
おいて先鋒をつとめるのは井伊と決まっている家柄です。
井伊と言えば、旧武田の遺臣を召し抱えた事から赤備えと言われる真っ赤な甲冑
が有名。
実際この四境戦争においても井伊の軍勢は赤備えの軍勢だった様です。

しかしながら甲冑兜の戦いは戦国の世のものであって、西洋砲術の戦いでは逆に
機動力を削いでしまう物になります。
赤備えはかえって目立つ事により、格好の的になってしまった様です。
大混乱に陥った井伊の先鋒隊は混乱の極地に陥り、赤備えを脱ぎ捨てて敗走します。
後詰めの高田藩兵は戦いもせず逃走、世の笑いものになったという事です。
高田藩の榊原家も徳川四天王の榊原康政のながれをくむ名家。

この戦いの敗戦により、幕府の権威が失墜するとともに、戦いの手法に関しても
火気の優劣が勝敗を決めるという事がはっきりした戦いといわると思います。

平成26年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/403847749.html

大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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[ここに地図が表示されます]

posted by 南行 at 13:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 広島県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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