2015年01月11日

大村益次郎殉難報国之碑     (大阪市中央区)

大阪市にある大村益次郎殉難報国之碑を見に行ってきました。

<大村益次郎殉難報国之碑>
大村益次郎殉難報国の地.jpg
住所:大阪市中央区法円坂2丁目1番
駐車場なし

大村益次郎は長州鋳銭司の町医者の子として生まれ、
三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、
さらに大阪の緒方洪庵について洋学・医学を学んだ。
1853年、宇和島藩に招かれて宇和島に数年留まり、後に江戸に出て
塾を開き、ついで幕府講武所の教授となった。
その後、長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授と
なった。
この頃いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてこれに
対処し幕府軍を破った。
その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。
維新後は兵部大輔として大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で
守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日
京都において、反対派のために襲撃を受け11月5日大阪で没した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
京都で襲撃され重傷を負った大村益次郎は大阪に移され、ボードウィンの執刀による
左大腿部切断手術手術を受けました。しかしその後敗血症を発症し亡くなります。

この襲撃には薩摩の海江田信義などがかかわっているという事で、維新後の薩長の
勢力争いや、大村が推し進めようとした兵制改革に対する旧士族の反発などいろ
いろな要因があったものと思われます。
大河ドラマ『花神』を昨年見て気になったので、この碑を見る事が出来て良かった
です。

大村益次郎殉難報国碑.jpg

協賛者名
大村益次郎殉難報国碑3.jpg

大村益次郎殉難報国碑2.jpg

東條英機、林銑十郎ら首相の名前。
松岡洋右外相、松下幸之助、荒木貞夫陸軍大将の名前もありますね。

平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

[ここに地図が表示されます]

posted by 南行 at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 大阪府 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック