<三木城>

住所:兵庫県三木市上の丸町
駐車場無し(歩いて5分位のところに観光協会の駐車場があります)
<現地解説>
三木城は上の丸台地上に築かれた丘城です。15世紀後半に別所則治によって
築かれたと考えられています。1578年から1580年、東播磨最大の勢力を
誇る三木城主別所長治と織田信長の武将羽柴秀吉の間で起こった三木合戦では
「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
落城語も三木が播磨における京都や大坂からの入り口として重要な場所であった
ため、主に豊臣家の直轄地として城代、城番が置かれました。
1600年、池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には家老
の伊木忠次が入城しましたが1615年の一国一城令によって廃城となりました。
構造は本丸・二の丸を中心とし、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害で構成され、南側
は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土造りの城としては播磨の中でも
最大級の規模を誇っています。

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三木城に行ってきました。
以前からいつか行こうと思っていましたが、なかなか行けず、今回官兵衛のからみ
もあったのでやっと訪問という事になりました。
ここに来る前に、三木合戦秀吉本陣に寄ってからきました。この城から数キロの所
です。
三木城が一番注目されたのは秀吉による三木城攻略戦です。
秀吉本陣は実際城のようなもので、三木城を取り囲み長期の兵糧攻めに
持ち込んだものです。
最終的に別所長治の切腹で三木城は落城。秀吉の播磨平定の大きな一戦
が終わります。
今は城跡が公園の様になり、ここが城であったという事が分かる物はほぼ
ありません。
別所長治公の銅像や、辞世の句碑。そして解説板などが設置されています。
<別所長治石像>

<別所長治辞世の句碑>

「今はただ 恨みもあらじ 諸人の命に代はる 我が身と思へば 」という句。
自分の死ですべてを解決しようという辞世の句ですね。
<三木城からの景色>



平成26年・27年 年末年始の旅
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大河ドラマの舞台
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日本の城を巡る
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