<光明寺>
住所:兵庫県加東市光明寺433
駐車場あり(無料)
境内自由
<現地解説>
594年、天竺飛来の法道仙人開基と伝える古義真言宗の古刹「播磨高野」とも
称され、新西国二十八番観音霊場として著名。卯月8日の仏生会は「滝野花祭」
の名で播州一のにぎわいを見せる。
塔頭寺院は現在四ヶ院であるが、文明年間には二十四を数えた。寺宝に本尊観世音
菩薩、大慈院の善導大師画像、遍照院の銅造如来座像などがある。
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光明寺に行ってきました。五峰山(ごふさん)の名の山号で、ひとつの山に
4つの塔頭がある大きな寺院です。
<五峰山図・クリックすると拡大します>
駐車場から坂を歩いて登って行くのですが、これがかなりの急坂。
本堂にたどり着く頃には息もゼーゼー状態でした(^^;
<本堂>
<阿弥陀堂>
<遍照院>
また、この光明寺は足利尊氏と足利直義が争った観応の擾乱の光明寺合戦
の古戦場でもあります。
<観応の擾乱・光明寺合戦について>
1348年、吉野焼き討ちで南朝を征圧した北朝方では足利尊氏と直義兄弟の
争いが表面化した。いわゆる観応の擾乱である。
中国筋平定のため、書写山に移った尊氏を討つべく、石塔頼房は5000余騎
で光明寺に陣を構え、八幡の直義に援軍を求めた。
それを知った尊氏は援軍の来る前に打ち破ろうと1万余騎を率い光明寺を囲んだ。
1351年2月4日の事である。
尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を敷いた。
仁王堂や東坂で激戦が展開されたが、いずれも寄せ手が敗れた。
両軍の対峙は10日に及んだが城方の後詰めがせまったので寄手は摂津まで軍を
引いた。
のち尊氏は直義と和睦し帰京したが、高師直・師泰兄弟は摂津の鷲林寺で処刑
された。
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
古戦場めぐり
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