<供中口古戦場>
住所:福島県二本松市榎戸二丁目
駐車場なし
<供中口古戦場について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戊辰戦争供中口古戦場(ぐちゅうぐちこせんじょう)に行ってきました。
二本松藩は奥羽越列藩同盟に参加し、会津藩の要請により白河口に兵を
送っていた関係で、二本松城を守る兵力が手薄になっていました。
そんな中、磐城平城が落城し、平藩が降伏すると新政府軍は三春に進軍。
三春藩は降伏しそのまま二本松に軍勢は侵攻しました。
二本松藩は、農兵や少年兵を動員し防戦にあたります。
二本松の戦いで有名なのは、二本松少年隊の悲劇の舞台となった大壇口
古戦場でしょう。
その他に、あまり有名じゃないですが、この供中口古戦場があります。
安達ヶ原の黒塚から見て阿武隈川の対岸にあたる場所が古戦場の様です。
阿武隈川の橋の下に古戦場の案内がありました。
三浦権太夫義彰ら農兵がこの地で戦いましたが、この戦いは新政府軍の
圧勝に終わり、阿武隈川の渡川を許してしまった様です。
現地は草が生い茂り、とても観光客が来れる様な状況ではありません。
こんな橋の下にひっそりと案内があっても、誰も気付かないでしょ。
まったく観光的にやる気の無い状況です。
来るのは僕のような歴史マニアくらいか・・・。
二本松藩の丹羽家は、織田信長の重臣、丹羽長秀の子孫である家柄です。
外様大名である丹羽家が、ほぼ玉砕する様な奮戦をしたのは何故なんでしょう。
二本松藩の藩祖、丹羽長重(長秀の嫡男)は関ヶ原で西軍についたため、
一旦改易となりますが、再び取り立てられ大名に復帰します。
その恩義を感じてか、丹羽長重の遺言には「「将軍の恩を第一として、幕僚と
円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め」というものがあります。
この遺言が二本松藩の戦いに繋がったのではないかと、僕は考えています。
平成28年秋旅1
http://rover.seesaa.net/article/442550291.html
古戦場めぐり
http://rover.seesaa.net/article/159539121.html
[ここに地図が表示されます]