<志木町歩き>

住所:埼玉県志木市
志木の町を散策しました。志木と言っても志木駅の近くではありません。
もともと志木という町は新河岸川の河岸場として栄えた町。
今は駅から遠い場所になってますが、新河岸川と柳瀬川が合流するあた
りがかつての町の中心地になります。
今回の散策もこのあたりを歩きました。
車をビバホーム志木店に停めさせて頂きました。
タダで停める訳にもいきませんので、3000円ほど買い物もさせて
頂きました。
ビバホームスタートでまずは志木市役所の方に向かいます。

行ってびっくり。志木市役所解体してるじゃないですか。
あとで調べたら移転したんですね。知りませんでした。
この場所駅から遠くて不便ですしね。跡地は何になるんでしょうね。
その解体している旧志木市役所の前にある村山快哉堂訪問です。
<村山快哉堂>


志木にあった古い店建築です。薬屋だったそうで、解体されそうになった
ところを市が引き取り、この地に移築したそうです。
こういう古い建物を残す取り組みは非常に良いですね。
中も見ることが出来ます。
<引又河岸跡>

村上快哉堂の裏に引又河岸跡があります。
江戸時代に江戸と川越を結ぶ河岸のひとつとして賑わいをみせた河岸跡
です。江戸から川越までの間に37カ所の河岸場があったそうです。
明治時代以降、鉄道の開通などにより舟運は衰退し終焉を迎える事にな
ります。
<いろは樋の大桝>


村上快哉堂から柳瀬川を渡りすぐの場所にあるいろは樋の大桝です。
民家の敷地の一角かと思わせる様な場所にありました。
かつて農業用水をひいた名残ですね。
写真を撮ってると、そこにある民家の中を撮ってるみたいで何かや
ばい感じがしました(^^;
<西川家潜り門>
上の大桝から徒歩1分にある西川家潜り門です。
これも移築されていた建築物です。



解説にもありますが、武州一揆の刀傷があります。
<敷島神社>

主街道を少しそれて敷島神社に行ってみました。
結構大きな神社です。公園みたいな感じになっていて、近所の
子連れ主婦の憩いの場みたいな雰囲気です。


<敷島神社内の田子山富士塚>


敷島神社の中に富士塚がありました。江戸時代に流行った富士
信仰に係わるものですね。
<西川地蔵堂>



通りにお地蔵様発見。解説もありました。
江戸時代に造られたお地蔵様の様です。
<志木の古い町並み>
かつて引又の市という市場があり、その前の通りには土蔵商家の
町並みが続いていたとの事。今は残る建物は少ないですが、わずかに
かつての雰囲気を感じる事が出来ます。






<上の水車>


かつて引又には3つの水車があり、米の脱穀などに使われていました。

上の水車跡にも古い道標が。味がありますね。
<馬頭観音碑>


馬頭観音の石碑がありました。
<宝憧寺>

宝憧寺という歴史あるお寺がありました。

宝憧寺十三仏。

宝憧寺本堂

志木市にはカッパ伝説があります。
特にこの宝憧寺のカッパ伝説は志木市のホームページで
紹介されています。

鷹場境の碑。
<行屋稲荷の庚申塔>



<庚申講について・ウィキペディアより>
庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)
という虫が、庚申の日の夜[1]寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告し
に行くとされていることから、それを避けるためとして庚申の日の夜は夜通
し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりす
る風習である。
庚申塔は庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとの事です。
江戸時代に流行った様ですね。東京都内にも庚申塔は数多くあります。
<氷川神社>


氷川神社がありました。境内はやや草が多く、少し荒れた感じがしました。
大宮や川越の氷川神社の様に大きな神社ではありません。
<柏の城>

現在の志木第三小学校のあたりが柏の城という城跡になります。
木曽義仲の子孫であるという大石氏が築城したお城です。
1590年、秀吉の小田原攻めの際、北条氏に従属していた大石氏の
柏の城も落城しました。


柏の城に関して、城の痕跡はまったく分からない感じです。
<城山貝塚>

柏の城の下に城山貝塚という貝塚跡がありましたが解説板も見づらく
よく分かりませんでした。
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
日本の古い町並み
http://rover.seesaa.net/article/21960937.html