2016年10月13日

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋    (山口県萩市)

萩市にある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋に行ってきました。

<旧厚狭毛利家萩屋敷長屋>
旧厚狭毛利長屋.jpg
住所:山口県萩市堀内85-2
入場料:100円(萩城と共通券)

<旧厚狭毛利家萩屋敷長屋について>
旧厚狭毛利長屋2.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩城門前にある旧厚狭毛利家の長屋です。
武家屋敷として最大級の大きさ、長さは51mもあります。
何故こんなに長いんでしょうね〜、不思議です。
特に何か展示が割る訳でもないので、数分で見終わってしまいました。

中には大河ドラマ『花燃ゆ』のポスターが。
旧厚狭毛利長屋3.jpg

平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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2016年10月11日

涙松の遺跡      (山口県萩市)

萩市にある涙松の遺跡に行ってきました。

<涙松の遺跡>
涙松の遺跡.jpg
住所:山口県萩市椿
駐車場あり(近くの梅林公園の駐車場利用)

<現地解説>
江戸時代、萩城下から山口へ通じる藩主御成街道は、大屋から左へ折れる
ので城下が見えるのもここが最後です。
松並木の間に見え隠れする萩を見返り、別れの涙を流すというので、ここ
の街道並木を「涙松」と呼んでいます。
幕末、吉田松陰が安政の大獄で江戸へ送られるとき
「かえらじと 思いさだめし 旅なれば 一入ぬるる 涙松かな」と詠んで
一躍有名になりました。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩から山口に向かう街道(萩往還)にある涙松遺跡です。
萩の城下の南にあり、城下が見えるのがここまでという事から、ここ
で萩城下を見返し涙を流すというので「涙松」と言うそうです。
涙松遺跡を記念する石碑があり、石碑には吉田松陰の詠んだ詩が刻まれ
ています。

今は現地を見ましたが、松並木は見当たりません。
かつてはあったのかな〜。
涙松の遺跡3.jpg

涙松の遺跡2.jpg

僕もこの場所を知ったのは、大河ドラマ『花燃ゆ』の関連地紹介
のコーナーでここが紹介されていたからです。

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木戸孝允生誕の地     (山口県萩市)

萩市にある木戸孝允生誕の地(旧宅)に行ってきました。

<木戸孝允旧宅>
木戸孝允生誕の地.jpg
住所:山口県萩市呉服町2-37
入場料:100円
駐車場なし

<木戸孝允旧宅について>
木戸孝允生誕の地5.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
木戸孝允(桂小五郎)は1833年この家に生まれました。
20歳で江戸に出るまで、この家で暮らしたそうです。
もともと木戸孝允は、萩藩の藩医である和田家の生まれで、後に
長州藩の重臣である桂家に養子に行きます。
よって、この家は藩医和田家のお宅という事になります。

家はそんなに大きくなく、こじんまりとした家です。
この建物は子孫で、内大臣を務めた木戸幸一氏により当時の萩町に寄贈
されたものです。

<木戸孝允旧宅>
木戸孝允生誕の地2.jpg

木戸孝允生誕の地3.jpg

木戸孝允生誕の地4.jpg

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2016年10月10日

萩城址     (山口県萩市)

萩市にある萩城址に行ってきました。

<萩城址>
萩城跡.jpg
住所:山口県萩市堀内1-1
駐車場あり(有料)
入場料:210円

<萩城について>
萩城跡2.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩城跡に行ってきました。ここも10年以上ぶりの訪問です。
関ヶ原の戦い後に、毛利輝元によって築城されたお城です。

すでに江戸幕府が開かれた後とはいえ、豊臣家は健在で、完全に太平の世
が来る前のお城ですので、実戦を意識したお城になっています。
背後にある指月山に有事には籠もる形になっています。

江戸時代には天守閣がありましたが、明治維新後に取り壊されています。
萩城跡5.jpg
こちらがありし日の萩城天守閣です(明治時代初期撮影)

今は石垣と堀が残りますが、その規模はとても大きなものです。
幕末には一時山口に藩庁が移されますが、明治維新に向けて激動の
舞台になった城でもあります。

<萩城址>
萩城跡4.jpg

萩城跡3.jpg

萩城跡7.jpg

萩城跡6.jpg

萩城跡8.jpg

<毛利輝元像>
萩城跡 毛利輝元像.jpg
萩城を築城した毛利輝元の銅像が城の前にありました。

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日本の城を巡る
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三矢の訓え像    (山口県萩市)

萩市にある三矢の訓え像を見てきました。

<三矢の訓え像>
三矢の訓え像.jpg
住所:山口県萩市大字江向495-4
萩市民会館前

<三矢の訓えについて>
三矢の訓え像3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩市にある三矢の訓え像を見てきました。
陶晴賢を厳島に破った後、毛利元就が3人の子に説いた教え
「三矢の訓え」を像にしたものです。

1本の矢は簡単に折れてしまうが、3本まとめてだと容易に折ることが
出来ない。
毛利を本家として、吉川、小早川が一体となって毛利家を盛り上げて
行くようにというお話です。

三矢の訓え像2.jpg

厳島の戦い後ですから、既に子の毛利隆元、吉川元春、小早川隆景とも
に大人のはずですが、像は子どもです(笑)
このお話自体、中国の故事になぞらえた創作という事ですけどね。


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2016年10月09日

旧久保田家住宅    (山口県萩市)

萩市にある旧久保田家住宅に行ってきました。

<旧久保田家住宅>
久保田家住宅.jpg
住所:山口県萩市呉服町1丁目31-5
駐車場なし
入場料:100円

久保田家住宅2.jpg

<旧久保田家住宅について>
久保田家住宅6.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩市にある旧久保田家住宅です。
参勤交代の際、大名が通る御成道沿いにある旧商家です。
呉服や酒造業を行っていたそうです。
萩というと武家屋敷というイメージですが、旧久保田家、そしてその目の
前にある菊屋家は萩に残る旧商家で、萩城下町の商家の賑わいを今に
伝えています。

現在の住所も呉服町ですし、昔はここに呉服屋さんが並んでいたんでしょ
うね。

<旧久保田家住宅>
久保田家住宅5.jpg

久保田家住宅4.jpg

久保田家住宅3.jpg

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円政寺       (山口県萩市)

山口県萩市にある円政寺に行ってきました。

<円政寺>
円政寺.jpg
住所:山口県萩市南古萩町6
駐車場なし
拝観料:200円

<円政寺について>
円政寺 解説.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩にある円政寺に行ってきました。
円政寺は鎌倉時代、大内氏の祈願所として建立されました。
大内氏滅亡後、毛利氏により萩に移され毛利氏の祈願所となりました。
幕末の住職恵運は従兄弟の息子である利助(のちの伊藤博文)を1年半
この寺で預かり、勉学に励ませたという事です。

円政寺2.jpg

円政寺3.jpg

また近所に住んでいた高杉晋作もこの寺で勉学に励み、この寺で遊んで
いたそうです。

境内には高杉晋作、伊藤博文ゆかりのものがいろいろ残っていました(^-^)

円政寺7.jpg

円政寺6.jpg

円政寺4.jpg

円政寺5.jpg

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2016年10月07日

平安橋     (山口県萩市)

萩市にある平安橋です。

<平安橋>
平安橋.jpg
住所:山口県萩市堀内・平安古町
駐車場なし

平安橋2.jpg

<平安橋について>
平安橋3.jpg

萩城三の丸から城下町へ通じる道路に架けられた橋で、かつては木製の橋
だったものを江戸時代中期に石造りに架け替えたものだそうです。

平安古に通じる橋なので、平安橋と言うそうです。

驚きなのは今でも現役という事。
普通に車が走ってます。耐久性とか大丈夫なんでしょうかね。
他にも江戸時代の石造りの橋が残っていたりしますが、今のように構造計算
が出来る訳でもない時代に架けた橋の耐久性というものに驚かされます。

江戸時代の土木技術もすごいですね。

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2016年10月02日

旧青木家住宅    (山口県萩市)

山口県萩市にある旧青木家住宅に行ってきました。

<旧青木家住宅>
旧青木家住宅.jpg
住所:山口県萩市南古萩町
駐車場なし
料金:100円

<青木家について>
旧青木家住宅5.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
青木家住宅に行ってきました。
青木周弼(あおきしゅうすけ)は幕末の医師で、毛利敬親に召し抱え
られ萩藩の藩医をつとめました。
シーボルトに師事し蘭学を学び、西洋医学・西洋兵学を修めた人物
です。子弟の育成にも力を入れたそうです。

旧青木家住宅2.jpg

子弟が学問の為に集まるからでしょうけど、居間は非常に広いです。
旧青木家住宅3.jpg
よくある武家屋敷とは間取りが違います。

周弼の弟研蔵も明治天皇の典医をつとめるなどした人物、その養子の
周蔵は明治時代に外務大臣として活躍しました。
日本史の中では、青木周蔵が一番有名ですかね。歴史の教科書でも
出てきますし(^-^)

旧青木家住宅4.jpg

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高杉晋作生誕の地    (山口県萩市)

萩市にある高杉晋作生誕の地に行ってきました。

<高杉晋作生誕の地>
高杉晋作生誕の地.jpg
住所:山口県萩市南古萩町23
駐車場無し
入場料:100円

<高杉晋作について>
高杉晋作生誕の地6.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩にある高杉晋作生誕の地に行ってきました。
萩城下町の武家屋敷が並ぶ一角に高杉晋作の生家が残っています。
この旧宅は家禄200石を受けていた父高杉小忠太宅で、現存する
当時の建物は座敷、次の間、居間、小室、玄関、台所です。

高杉晋作の生家がこれだけ綺麗に残っているのはとてもすごい事だと
思います。家の中には入れませんが、外からその雰囲気を味わって
きました(^-^)

<高杉晋作産湯の井戸>
高杉晋作生誕の地 産湯の井戸.jpg

<生家>
高杉晋作生誕の地2.jpg

高杉晋作生誕の地3.jpg

<東行先生顕彰碑>
高杉晋作生誕の地4.jpg
東行というのは高杉晋作の事です。

高杉晋作生誕の地5.jpg

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2016年09月30日

久坂玄瑞生誕の地    (山口県萩市)

萩市にある久坂玄瑞生誕の地に行ってきました。

<久坂玄瑞生誕の地>
久坂玄瑞生誕地.jpg
住所:山口県萩市平安古町537-2
駐車場なし

<久坂玄瑞について>
久坂玄瑞生誕地3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
久坂玄瑞生誕の地に行ってきました。
萩の城下町の南側にある住宅地に久坂玄瑞生誕の地はあります。
久坂玄瑞は武家の生まれではなく、医者の息子として生まれますが、
松下村塾で学び後に長州藩の藩政にも影響を及ぼすようになります。

禁門の変で敗れ自刃。若くして世を去りました。
平成26年の大河ドラマ「花燃ゆ」では主人公杉文の夫として準主役の
様な位置づけでした。

松下村塾の秀才が明治時代に生きていれば、どのような人生を送ったか
なと思い描いてしまうところです。

生誕の地は、特に何か残っている訳ではありませんが、解説文と三条実美
筆の追慕の碑などがあります。

久坂玄瑞生誕地2.jpg

久坂玄瑞生誕地5.jpg

<三条実美による追慕の碑>
久坂玄瑞生誕地4.jpg
「九重の みはしのちりを はらはむと こゝろも身をも うちくたきたる」

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高杉晋作立志の像   (山口県萩市)

萩市にある高杉晋作立志の像を見てきました。

<高杉晋作立志の像>
高杉晋作立志の像.jpg
住所:山口県萩市南古萩町(晋作広場)
駐車場なし

高杉晋作の生家近くにある晋作公園内にある銅像です。
平成22年に造られた「高杉晋作立志像」
作者は、江里敏明さんという方で、昨日の記事で書いた久坂玄瑞像と同じ人物です。

高杉晋作が松下村塾に通っていた頃(20歳前後)のイメージで
造られた銅像です。

高杉晋作立志の像2.jpg

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2016年09月29日

久坂玄瑞進撃像      (山口県萩市)

山口県萩市にある久坂玄瑞進撃像を見てきました。

<久坂玄瑞進撃像>
久坂玄瑞進撃像.jpg
住所:山口県萩市江向(中央公園)
駐車場あり(有料)

平成27年に造られた久坂玄瑞像です。平成26年の大河ドラマが「花燃ゆ」でした
からそれを記念してという事なんでしょうね。
高さ1.8m、作者は江里敏明さんという方です。
尊皇攘夷の先頭に立つ若き久坂玄瑞の像です。

久坂玄瑞進撃像2.jpg

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萩反射炉      (山口県萩市)

萩反射炉を見に行ってきました。

<萩反射炉>
萩反射炉4.jpg
住所:山口県萩市椿東4897-7
駐車場あり(無料)

<萩反射炉について・クリックすると拡大します>
萩反射炉3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に指定された萩反射炉です。
萩藩が1856年に鉄製大砲を鋳造するために試験的に築造した反射炉
です。安山岩積みの反射炉ですが、この反射炉は本格的に使われた
ものではないそうです。
幕末に萩藩が自力で産業の近代化を目指すなかでのトライアル&エラー
を証明する遺産です。

安山岩で造られていますが、風雨に耐え今も綺麗に残っているのがすごい
です。

<萩反射炉>
萩反射炉.jpg

萩反射炉2.jpg

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2016年09月28日

須佐のホルンフェルス     (山口県萩市)

山口県萩市にある須佐のホルンフェルスを見に行ってきました。

<須佐のホルンフェルス>
須佐ホルンフェルス2.jpg
住所:山口県萩市須佐高山北海岸
駐車場あり(無料)

<須佐のホルンフェルスについて>
須佐ホルンフェルス.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
萩市にある須佐のホルンフェルスです。
砂岩や頁岩層からなる須佐層群が堆積したあと、その中に高温の火成岩体
が貫入し、その熱の影響を受けてできたもので、1400万年前に形成
されたものだそうです。
地質学的に非常に貴重なもので、日本の地質百選なるものに選定されて
います。
以前来たときは、ホルンフェルスの大断層とうたわれていましたが、断層
ではなく誤りと言うことで、「大断崖」と表示が変わっていました。

縞々の地層が興味深いのもそうですが、海の風景がとても良いのも魅力的
な場所です(^-^)

<須佐のホルンフェルス>
須佐ホルンフェルス3.jpg

須佐ホルンフェルス5.jpg

須佐ホルンフェルス4.jpg

須佐ホルンフェルス7.jpg

須佐ホルンフェルス6.jpg

須佐ホルンフェルス8.jpg

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2014年11月26日

野田神社/豊栄神社    (山口県山口市)

山口市にある野田神社及び豊栄神社に行ってきました。

<野田神社・豊栄神社>
野田神社.jpg
住所:山口県山口市天花1−1−2
駐車場あり(無料)
境内自由

山口市にある野田神社・豊栄神社に行ってきました。
同じ場所にあるので、一緒の記事にしました。

<現地解説・野田神社>
祭神は毛利敬親および毛利元徳公です。
毛利敬親は毛利藩13代藩主で幕末維新の時に藩士を指揮して近代国家
の成立に努力、明治4年に山口で亡くなりました。
元徳公は敬親の養子で父敬親を補佐し明治29年に亡くなりました。

野田神社2.jpg

野田神社3.jpg

<現地解説・豊栄神社>
祭神は毛利元就公です。
元就は安芸国吉田の出身で、戦国時代に中国地方八カ国を治めた大名で
吉田で亡くなり墓もそこにあります。
毛利輝元が萩城に移った時、城の内に社を建てて元就の霊を祀っていまし
たが、明治2年山口に移されました。
この年に朝廷から元就の神霊に対し「豊栄」の神号を賜りました。

豊栄神社.jpg

豊栄神社2.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
野田神社、豊栄神社に行ってきました。
向かって左側に野田神社、右側に豊栄神社があり、一体となって大きな神社と
なっています。
戦国期に毛利氏を一大大名に押し上げた毛利元就公、幕末の動乱期に家臣をよく
使い長州藩を歴史の表舞台に押し上げた毛利敬親公と毛利家の著名な人物が祀られ
ています。

境内には「百万一心」の碑がありました。
野田神社  百万一心.jpg
これはかつて毛利氏の居城である吉田郡山城跡の石垣にこの文字を刻んだ
石があり、1816年にそれを実際に見た藩士武田泰信がこの石を御城
守護の心柱であったであろうと紙に写し取って明治15年に豊栄神社に
奉納した。その礎石の所在はいまや不明との事。

百万一心の字を分解すると、一日一力一心とも解する事が出来、
日を一にし力を一にし心を一にすという衆人協同の考えであると
されます。
先日見た大河ドラマ『毛利元就』で、この石のことが紹介されていて、
豊栄神社にこの碑があったので、ついつい気になってしまいました。

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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俊龍寺 / 豊臣秀吉・足利義輝・足利義昭供養塔   (山口県山口市)

山口市にある俊龍寺に行ってきました。

<俊龍寺>
能俊寺.jpg
住所:山口県山口市天花2丁目12−1
駐車場あり(無料)
境内自由

能俊寺2.jpg

山口県山口市にある能俊寺に行ってきました。
お寺の由来などは詳しく分かりませんが、ここには豊臣秀吉の供養塔
そして足利13代将軍の足利義輝、義輝の母、15代将軍足利義昭の
供養塔があるという事で行ってみました。

豊臣秀吉供養塔は、1598年豊臣秀吉の死に際し、毛利輝元が家臣
柳澤元政に命じて供養塔を建立させたものと言われています。
この供養塔は四石を使い法名、年月などを刻んであり本格的な供養塔
です。

秀吉の供養塔と並ぶ3基の供養塔は足利義輝、義昭、義輝の母のもの
です。こちらも毛利輝元が柳澤元政に命じ、1597年に義輝公及び
その母の三十三回忌、また義昭公が没した際に建立させたものです。

能俊寺 豊臣秀吉廟.jpg

能俊寺 豊臣秀吉廟2.jpg
右から豊臣秀吉、足利義輝、足利義昭、義輝の母の供養塔。
秀吉の供養塔は、石の美術品としても価値が高い物だそうです。

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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著名人の墓
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2014年11月24日

龍福寺 / 大内氏館跡    (山口県山口市)

山口県山口市にある龍福寺(大内氏館跡)に行ってきました。

<龍福寺>
竜福寺.jpg
住所:山口県山口市大殿大路119
駐車場あり(無料)
境内自由

龍福寺はもとは山口市白石にありましたが、1551年に兵火にかかりそのまま
になっていたものを、1557年毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うためにこの地
に再興しました。
1881年、龍福寺は火災に遭いほとんどの建物が焼失しました。
そのため、大内氏の氏寺であった天台宗興隆寺から釈迦堂を移築し龍福寺本堂
へ改造しました。この本堂は1479年に建立されたと言われています。

この境内地は大内氏の館跡で、大内氏はここで200余年間政務をとりました。
1549年、毛利元就は元春公、隆景公の二子を連れてこの大内館に参上し、
大いに歓待されました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
山口市にある龍福寺に行ってきました。
ここは大内氏の館があったところだそうです。
館跡は完全に跡地で、現在その面影を見る事は出来ません。
発掘作業が行われて、その全貌の一端が分かった程度の様です。

龍福寺 大内館跡.jpg
池などがあり、大きな館だった様です。

大内氏は義隆の代に陶晴賢の謀反により、長門市にある大寧寺で自刃します
(大寧寺の変)
つい最近大河ドラマ『毛利元就』を見ましたが、大内義隆が政治への関心を
失い陶晴賢がそれを憂いて謀反を起こす様な感じでした。
毛利隆元は大内義隆から「隆」の字をもらい関係も深かった事から、この
龍福寺を建立してその菩提を弔ったのでしょう。

境内には大内義隆主従の供養塔、辞世の句碑などがあります。

【大内義隆主従供養塔】
大内義隆主従供養塔.jpg

【大内義隆辞世の句碑】
大内義隆辞世の句碑.jpg
「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観」
大内義隆の辞世の句です。漢字の部分は「にょろやくにょでんおうさにょぜかん」
と読みます。句は討つ人も討たれる人も人生は露の様に儚いという意味だそうです。
文化人として知られた義隆らしい辞世の句ですね。

【大内義興像】
大内義興像.jpg
大内義隆の父、大内義興の像です。義興の代に大内氏は一大勢力として
全盛期を迎えます。

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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著名人の墓
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銅像めぐり
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2014年11月23日

大楽寺       (山口県防府市)

山口県防府市にある大楽寺に行ってきました。

<大楽寺>
大楽寺.jpg
住所:山口県防府市桑山1丁目5-10
駐車場あり(無料)
境内自由

山口県防府市にある大楽寺に行ってきました。
現地にお寺の解説などが無かったため、お寺の由来などは分かりません。
行った理由はここ大楽寺に来年の大河ドラマの主人公である楫取美和子の墓
があるというので行った次第です。

楫取美和子は吉田松陰の妹で、久坂玄瑞に嫁ぎ、玄瑞の死後初代群馬県令に
なった楫取素彦の嫁になった人物です。
大河ドラマを先取りして関連地訪問です。

<楫取美和子の墓>
大楽寺  楫取美和子.jpg
左が楫取美和子の墓、右は夫の楫取素彦の墓です。

大楽寺  花燃ゆ.jpg
大河ドラマ『花燃ゆ』の旗も。

大楽寺に行って驚いたのは、ここに夏目雅子さんのお墓があるのです。

<夏目雅子の墓>
大楽寺  夏目雅子の墓.jpg
墓碑に「芸名女優夏目雅子」とありますね。
白血病で27歳で亡くなった夏目雅子さんの事は子供の頃でしたがよく
覚えています。

大楽寺  夏目雅子のひまわり園.jpg

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大河ドラマの舞台
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2014年10月08日

大村神社     (山口県山口市)

山口市にある大村神社に行ってきました。

<大村神社>
大村神社2.jpg
住所:山口県山口市鋳銭司3406
駐車場(鋳銭司郷土館の駐車場利用)

大村神社の祭神は大村益次郎である。
益次郎は成長して三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、
さらに大阪の緒方洪庵について洋学・医学を学んだ。
1853年、宇和島藩に招かれて宇和島に数年留まり、後に江戸に出て
塾を開き、ついで幕府講武所の教授となった。
その後、長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授と
なった。
この頃いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてこれに
対処し幕府軍を破った。
その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。
維新後は兵部大輔として大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で
守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日
京都において、反対派のために襲撃を受け11月5日大阪で没した。

当神社は墓地のそばにあったが、昭和21年この地に再建された。
隣の鋳銭司郷土館に益次郎関係の資料・遺品が展示されている。

大村神社.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
鋳銭司郷土館のとなりに大村神社という神社がありました。
名前の通り大村益次郎が祭神です。
地元では益次郎は神になってるんですね。偉大な人物です。

境内には「花神」の碑がありました。
大村神社 花神の碑.jpg
花神とは中国で花咲かじいさんの事だそうです。
大河ドラマのオープニングでもその事が紹介されています。
もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役割は日本の津々浦々の枯れ木
に花を咲かせることであった。
そしてその使命が終わると歴史から大急ぎで去って行ったと。
まさに大村益次郎ってそんな感じがしますね。

cds-1010-l.jpg

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大村益次郎の墓     (山口県山口市)

山口市にある大村益次郎の墓を参拝してきました。

<大村益次郎の墓>
大村益次郎の墓.jpg
住所:山口県山口市鋳銭司3502
駐車場あり

<現地解説>
大村益次郎は鋳銭司の村医者の子として生まれた。長じて洋学・医学を学び
後に兵学をもって毛利家に仕えた。
幕府の長州征伐に際しては、防長の四境にせまる幕軍に対し、身についた洋式兵法
をもってこれを破り、倒幕の機を早めた。戊辰の役にも参謀として大功があった。
明治維新後は新政府に仕え、兵部大輔となり廃刀・断髪をとなえまた大いに建議
して軍政の改革を唱えた。
しかしそれがため旧思想の武士達の反感にあい、京都に出張中襲撃を受け、その
傷のため二ヶ月後の明治2年11月5日、大阪の病院で没した。
遺骸は瀬戸内海を船で郷里に運びこの地に埋葬した。
益次郎と並んで妻琴子の墓がある。

<大村益次郎の墓>
大村益次郎の墓2.jpg

<大村琴子(益次郎の妻)の墓>
大村益次郎の墓3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
山口市の郊外、鋳銭司にある大村益次郎の墓(国指定史跡)を参拝してきました。
鋳銭司の郷土館というのがあって、ここでは古代のお金を作っていた鋳銭司移籍に
ついての解説があるのとともに、半分は大村益次郎の史料が展示されていました。
この資料館の裏方に大村益次郎の墓があります(歩くと結構距離あります)
大河ドラマ『花神』を見たあとだったので、大村益次郎の墓を参拝出来てとても
良かったです。益次郎は武士の出ではなかったがゆえに、急進的な改革により武士
たちから恨まれる形になってしまったんですね。
益次郎の襲撃には薩摩の海江田信義も関わってるという説もありますものね。

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2014年10月06日

大村益次郎生誕の地    (山口県山口市)

山口市にある大村益次郎生誕の地に行ってきました。

<大村益次郎生誕の地>
大村益次郎生誕の地碑.jpg
住所:山口県山口市鋳銭司5670-1
駐車場なし

この地は大村益次郎の祖先が代々居住したところで、益次郎は1825年
5月3日出生した。しかし、益次郎の出生後3年ばかりして、一家は父の
実家のある秋穂の天田に移り生家は解き払われた。
益次郎は成長して三田尻の梅田幽斉に蘭学、九州日田の広瀬淡窓に漢学、
さらに大阪の緒方洪庵について洋学・医学を学んだ。
1853年、宇和島藩に招かれて宇和島に数年留まり、後に江戸に出て
塾を開き、ついで幕府講武所の教授となった。
その後、長州藩に召されて江戸藩邸に入り、後に帰国して明倫館教授と
なった。
この頃いわゆる幕府による長州征伐がおこり、益次郎は参謀としてこれに
対処し幕府軍を破った。
その後、戊辰の戦いにも参謀として功があり、明治新政府の樹立に尽くした。
維新後は兵部大輔として大いに軍政を改革し、日本の国は日本国民全部で
守るべきだとして、大いに国軍の建設に尽力したが、明治2年9月4日
京都において、反対派のために襲撃を受け11月5日大阪で没した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
山口市にある大村益次郎生誕の地に行ってきました。
鋳銭司村と呼ばれた場所です。
大村益次郎は鋳銭司村の村医者の子として生まれます。
僕も大村益次郎について詳しいことは知らなかったのですが、先日大河ドラマ
『花神』を見ていろいろ知ることが出来ました。
元々長州藩士という訳じゃ無かったんですね。
鋳銭司は山口市の中心部からはかなり離れており、江戸時代には本当に田舎村だっ
たんだろうなと想像出来ます。
そんな田舎から出た天才が維新を成し遂げる大きな功績を残した事はとても驚く
べき事と思います。

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2014年10月05日

周布公園 / 周布政之助の墓     (山口県山口市)

山口県山口市にある周布公園に行ってきました。

<周布公園>
周布公園.jpg
住所:山口県山口市周布町
駐車場なし(道が狭いので車で入り込まない方が良い)

<現地解説>
周布政之助(すふまさのすけ)は、長州藩の重臣として幕末の動乱期に奔走
して藩政に尽くした。高杉晋作、伊藤博文、井上馨らの青年志士をよく庇護
し、藩論が動揺する中にあっていつも指導的な立場にあって藩の方向を定めた。
幕府の長州征伐にあたっては、萩では俗論派が威をふるい急進派の志士を
遺責したが、周布も謹慎を命ぜられ大歳の吉富家へ軟禁された。
しかし周布は身をもって藩内の紛争を防ごうとして元治元年遺書を残して
自刃して果てた。

【周布政之助顕彰碑】
周布正之助顕彰碑.jpg

【周布政之助の墓】
周布政之助の墓.jpg
1862年高杉晋作らの英国公使襲撃計画にからみ土佐藩主への暴言から
表向き周布は帰国謹慎とし、実は麻田公輔と変名して引き続き政務にあたる
ことになった。よって墓碑は「麻田公輔」になっている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
山口市にある周布公園に行ってきました。
山口の湯田温泉から歩いて10分かからない位のところです。
周布政之助は幕末の長州藩家老で、高杉晋作らのよき理解者として知られて
います。
長州征伐の頃には、長州藩は椋梨藤太らの俗論派と、周布や桂小五郎らの正義派の対立
が激しくなります。
その混乱の中、周布政之助は自刃。長州藩の藩論が固まる前に亡くなっているせいも
あり、幕末の物語の中ではいまいち知られていない人物になってしまっています。
高杉晋作らがのちに活躍出来たのも周布政之助あっての事と思っております。

来年の大河ドラマ『花燃ゆ』では、ドラマ半沢直樹で名演技をした石丸幹二さんが
周布政之助を演じる様です。
楽しみですね(^-^)

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2014年10月02日

井上公園 / 井上馨邸跡     (山口県山口市)

山口市の湯田温泉にある井上公園に行ってきました。

<井上公園>
井上公園.jpg
住所:山口県山口市湯田温泉2丁目5
駐車場なし

<現地解説>
この公園は、明治維新の大業推進に功があった井上馨候の生誕地です。
園内には井上馨公の銅像や、1863年の政変で京都から長州に落ち延
びた三条実美ら七卿が寄宿した何遠亭跡や、艱難辛苦のなかに国事に
つくした鉱石を記念して建てられた七卿の碑があります。

<七卿の碑>
井上公園 七卿の碑.jpg

<何遠亭跡>
井上公園 何遠亭跡.jpg

<井上馨像>
井上公園 井上馨像.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
山口の湯田温泉にある井上公園に行ってきました。
今回の夏旅で、初めて湯田温泉に宿泊しました。湯田温泉は室町時代に
発見されたという歴史ある温泉で、幕末には京都から逃れてきた三条実美らの
いわゆる七卿が滞在したことでも知られます。

そんな七卿が滞在したのが、何遠亭という場所で、井上馨亭を増築して作った
ものだそうです。全然知りませんでした。
ここ井上公園は、その何遠亭があった場所であり井上馨が生まれた場所でも
あるそうです。

井上公園2.jpg

この公園は、最初井上公園という名前で始まり、後に高田公園となり、最近
また井上公園に改称されました。こう名前が変わるのも珍しいですね。
湯田の温泉街から歩いて行けますので、湯田温泉に行った際に立ち寄ると良いかと
思います。

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銅像めぐり
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2013年12月08日

維新発祥の地碑   (山口県下関市)

山口県下関市にある維新発祥の地碑です。

<維新発祥の地碑>
維新発祥の地碑.jpg
住所:山口県下関市長府中浜町

<解説文>
城下町長府には西暦193年、仲哀天皇、神功皇后により豊浦の宮が築かれた
由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承されている。
646年には長門の国府として長府と呼ばれるようになり、その後長門鋳銭司や
国分寺が設置され繁栄を続けてきたが中世には長門守護所、長門探題も設けられ、
政治的軍事的拠点として重要な役割を果たした。
1600年、関ヶ原の戦い後毛利秀元が長府5万石の城主として入府。
幕末に至り、倒幕拠点の地として脚光をあびてくる。
1864年、功山寺における高杉晋作の挙兵により明治維新発祥の地として世に高く
評価され伝承されてきた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長府の町の入り口付近、鳥居前交差点を曲がりすぐの分かれ道の真ん中に碑が
建っています。
高杉晋作の挙兵、馬関戦争、四境戦争など維新にゆかりの地長府。
それにちなみ昭和60年にこの碑が造られた様です。


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2013年11月27日

高杉晋作像@日和山公園   (山口県下関市)

山口県下関市の日和山公園で高杉晋作の像を見てきました。

<高杉晋作像>
日和山公園の高杉晋作像.jpg
住所:山口県下関市丸山町5丁目
駐車場なし

桜の名所として知られる下関市の日和山公園です。
ここに高杉晋作の銅像があります。
昭和31年、高杉晋作没後90年にこの銅像が造られました。
東行庵・功山寺などにも高杉晋作の銅像がありますが、どれも
格好良いです。
ここの銅像は、下関の街を見下ろすような感じで作られています。

日和山公園の高杉晋作像2.jpg

日和山公園には駐車場がありません。山の上にも駐車場は無し。
車は山の下で停めて、歩いて行くしかないのかなという感じです。

銅像めぐり
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2013年11月25日

正円寺の大イチョウ   (山口県下関市)

山口県下関市、正円寺の大イチョウを見てきました。

<正円寺の大イチョウ>
正円寺の大イチョウ.jpg
住所:山口県下関市長府中之町6-6
駐車場なし

正円寺の本堂前左側にある樹高約14m、胸高周囲は約8m。
幹からは「乳の下垂}といわれる突起が発達して垂れ下がっています。
樹齢は300年超と推定されます。
山口県指定の天然記念物。樹齢300年という事で、ここ長府で挙兵した
高杉晋作や伊藤博文も見たかもしれない銀杏の木って事ですね。
紅葉で黄色く色づいていました。

<正円寺の大イチョウ・平成25年11月23日撮影>
正円寺の大イチョウ1.jpg

正円寺の大イチョウ2.jpg

正円寺の大イチョウ3.jpg

正円寺の大イチョウ4.jpg

紅葉の名所巡り
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長府庭園    (山口県下関市)

山口県下関市にある長府庭園に行ってきました。

<長府庭園>
長府庭園1.jpg
住所:山口県下関市長府黒門東町8−11
入園:200円 9:00〜17:00
駐車場あり(無料)

長府庭園は長府毛利藩の家老格であった西運長の屋敷跡で、小高い山を背にした約
31000平米の敷地には池を中心に書院・茶室・東屋が残され、かつての静かな
佇まいが今日まで保たれています。
園内には孫文蓮・桜・松・ツツジ・キンモクセイ・もみじ・菖蒲の他、滝と池に通じる
小川があり、四季折々ゆったりと庭園美が楽しめる回遊式庭園です。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長府庭園に行ってきました。
毛利家の家老格の家柄の方の邸宅跡。かなりの広さの敷地に優雅な日本庭園が
残されています。
東京にある大名庭園とは違う優美さがあります。ちょうど紅葉が見頃で、素晴らしい
庭園美を堪能することが出来ました。

<長府庭園の紅葉・平成25年11月23日撮影>
長府庭園2.jpg

長府庭園3.jpg

長府庭園4.jpg

写真が多いので、続きをご覧ください。

紅葉の名所巡り
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続きを読む
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2013年11月24日

長府毛利邸    (山口県下関市)

山口県下関市にある長府毛利邸に行ってきました。

<長府毛利邸>
長府毛利邸.jpg
住所:山口県下関市長府惣社町4−10
開園:9時〜17時
料金:200円
駐車場なし

<現地解説>
長府毛利邸は長府毛利家14代党首毛利元敏公が、東京から帰住し、この地を
選んで建てた邸宅です。
明治31年に起工し、明治36年6月に完成したあと、大正8年まで長府毛利家
の邸宅として使用されました。
その間、明治35年11月には明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習をご視察の
際の、当邸を行在所として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、
往時が偲ばれます。
また津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様も、このお屋敷
で幼少時代を過ごされました。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や
紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園の佇まいを感じさせてくれます。

長府毛利邸2.jpg

長府毛利邸3.jpg
明治天皇宿泊の部屋。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長府毛利邸に行ってきました。
功山寺の近くにあるんですが、4年前に長府を散策したときには寄らなかった
様で、今回初訪問になりました。
長府毛利家の屋敷ですが、江戸時代ではなく、明治の建物。
和風のずっしりした建物に、庭は日本庭園。美しい日本の建物という感じです。
今回は紅葉を見に行ってきました。紅葉もとても綺麗です。

<長府毛利邸の紅葉・平成25年11月23日撮影>
長府毛利邸 紅葉1.jpg

長府毛利邸 紅葉2.jpg

長府毛利邸 紅葉3.jpg

長府毛利邸 紅葉4.jpg

長府毛利邸 紅葉5.jpg

この日は、着物や鎧の試着仮装みたいなイベントも行われていました(^-^)

長府毛利邸 武将仮装.jpg

紅葉の名所巡り
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覚苑寺の紅葉   (山口県下関市)

山口県下関市の覚苑寺で紅葉を見てきました。

<覚苑寺の紅葉>
覚苑寺の紅葉.jpg
住所:山口県下関市長府安養寺3-3-10
紅葉のシーズンのみ志納200円
駐車場あり(無料)

こちらも4年ぶりの訪問になった覚苑寺です。
覚苑寺も長府毛利家ゆかりの寺で、境内には歴代藩主の墓がある
由緒あるお寺です。

<以前書いた記事>
http://rover.seesaa.net/article/126543132.html

そんな覚苑寺で紅葉が見頃という事で行ってきました。
行ってみてびっくり。素晴らしい紅葉でした。
今回は長府を散策しましたが、覚苑寺の紅葉が一番良かった。
前に行ったときに、木の種別を見て紅葉が綺麗だろうなと予想
していましたが、ここまでとは。感動しました。
功山寺には人が大勢いましたが、ここはひっそり。紅葉を静かに
見たいならこちらがおすすめです。

<覚苑寺の紅葉・平成25年11月23日撮影>
覚苑寺の紅葉1.jpg

覚苑寺の紅葉2.jpg

覚苑寺の紅葉3.jpg

覚苑寺の紅葉4.jpg

覚苑寺の紅葉5.jpg

覚苑寺の紅葉6.jpg

覚苑寺の紅葉7.jpg

紅葉の名所巡り
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功山寺の紅葉   (山口県下関市)

山口県下関市の功山寺で紅葉を見てきました。

<功山寺>
功山寺の紅葉1.jpg
住所:山口県下関市長府川端1-2-3
駐車場あり
境内自由

4年ぶりで下関の長府にある功山寺に行ってきました。
功山寺は長府毛利家ゆかりの寺で、幕末に高杉晋作が挙兵した寺として
知られています。
<以前書いた記事>
http://rover.seesaa.net/article/126260437.html

そんな功山寺に紅葉を見に行ってきました。
紅葉の名所と聞いていたので、気になっていました。
紅葉はちょうど見頃。観光客も沢山来ていました。
山門前の参道が特に綺麗です。

<功山寺の紅葉・平成25年11月23日撮影>
功山寺の紅葉2.jpg

功山寺の紅葉3.jpg

功山寺の紅葉4.jpg

功山寺の紅葉5.jpg

功山寺の紅葉6.jpg

今回の訪問で、新たに功山寺に三吉慎蔵の墓があることを知りました。
以前来たときには何も説明が無かったのですが、どうも大河ドラマで
龍馬伝が放送された際に設置されたと思われる説明板が出来ていました。
龍馬伝で三吉慎蔵も注目されましたからね。

<三吉慎蔵の墓>
三吉慎蔵の墓.jpg

著名人の墓
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紅葉の名所巡り
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2010年03月06日

田中義一像   (山口県萩市)

山口県萩市にある田中義一の銅像です。

<田中義一像>
田中義一像.jpg
住所:山口県萩市堀内(萩博物館脇の公園)

田中義一は1863年萩市生まれ。
毛利公の籠持ち田中家の三男として出生。
13歳の時に新堀小学校の授業生に登用され、萩の乱にも参加したが、
のち陸大に進学した。
大正7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。
大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり、外務大臣
も兼任した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
田中義一は昭和恐慌で総辞職した若槻礼次郎内閣の後を受けて首相
になった人物です。長州の下級武士の子から、首相・陸軍大将まで
上り詰めたサクセスストーリーではありますが、張作霖爆殺事件の
後、昭和天皇から叱責され総辞職。

萩を散歩していたら、誰かの銅像が立ってるな〜と思い寄ってみたら
田中義一でした。萩の出身だったんですね〜、このとき初めて知り
ました。

銅像めぐり
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2009年09月17日

吉田旧街道    (山口県下関市)

山口県下関市の吉田旧街道を散策しました。

<吉田旧街道>
吉田旧街道.jpg
住所:山口県下関市吉田

吉田旧街道2.jpg

吉田旧街道3.jpg

吉田旧街道4.jpg

吉田旧街道は旧山陽道の街道筋にあり、江戸時代毛利藩本藩の所領
として、吉田宰判の代官所や本陣も置かれ、宿場町として栄えたとこ
ろです。かつては旅籠などが並び栄えたそうで、奇兵隊の隊士もこの
町を歩いたことでしょう。
かすかにその面影を感じることが出来ます。

平成21年夏旅
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奇兵隊陣屋跡    (山口県下関市)

山口県下関市にある奇兵隊陣屋跡に行ってきました。

<奇兵隊陣屋跡>
奇兵隊陣屋跡.jpg
住所:山口県下関市吉田
駐車場あり

1863年、萩本藩主の命を受けた高杉晋作が馬関に出張し、武士
以外の人たちも入隊を許し奇兵隊を結成した。
奇兵隊は翌元治元年、米・英・仏・蘭四ヶ国連合艦隊を前田砲台など
に迎撃し、勇気をもって戦ったが新兵器を持つ連合軍に敗退した。
同年、高杉晋作の挙兵後、兵隊は吉田に転陣、慶応三年に兵舎、稽古場
、講堂などを配した陣屋をこの地に築き移った。
陣屋では厳しい規律に従い400人の志士が毎朝6時起床、8時まで
講堂で学び、9時から調練の日課で外出は隔日に五人一組で吉田
地区内のみ許された。

奇兵隊陣屋跡2.jpg

幕末に高杉晋作によってつくられた近代軍隊のさきがけ、奇兵隊の
陣屋です。高杉晋作の墓がある東行庵から車なら数分のところにあり
ます。奇兵隊陣屋跡の碑と、鉄砲を持つ奇兵隊兵士の像があります。

平成21年夏旅
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2009年09月16日

亀山八幡宮   (山口県下関市)

山口県下関市の亀山八幡宮に行ってきました。

<亀山八幡宮>
亀山八幡宮.jpg
住所:山口県下関市中之町1-1
駐車場(近隣有料駐車場利用)
参拝自由

859年、八幡神が京都石清水八幡宮に勧請される途次、当時島だ
った亀山の麓に船をつながれた。その夜「この山清浄なり、しばら
く祭祀し奉りて路を進むべし」との神託により勅使は国主に命じて
宮殿を造営された。以来、朝廷・大内氏・毛利藩主の崇敬厚く、
下関六十ヶ町の氏神、「関の氏神」として奉斎されている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
下関唐戸市場の前にある亀山八幡宮に寄ってきました。
亀山八幡宮は、国道沿いにあり、少し高い丘になったところに鎮座
します。

その場所柄馬関戦争において、亀山砲台が置かれた所としても知られ
ています。

亀山八幡宮 本殿.jpg
下関では「関の氏神」として信奉されているそうです。

境内には、林芙美子氏の『放浪記』の一説を刻んだ碑
亀山八幡宮 林芙美子の碑.jpg

フグの町下関ならではのフグの像などがありました。
亀山八幡宮 フグの像.jpg

また、亀山八幡宮前は山陽道の起点と言うことで、山陽道の石碑が
あります。
山陽道起点の碑.jpg

平成21年夏旅
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2009年09月15日

東行庵     (山口県下関市)

山口県下関市にある東行庵に行ってきました。

<東行庵>
東行庵1.jpg
住所:山口県下関市吉田1184
駐車場あり(無料)
見学自由
東行記念館は有料

この地は清水山と称し、幕末の頃奇兵隊軍艦山県有朋は麓に草庵を
建て、無隣庵と名付けていた。1867年高杉晋作に遺言により
遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬った。晋作に仕えていた愛人
うのは黒髪を断って出家したので、山県は無隣庵をうのに贈り
欧州に旅立った。
うのは明治42年にその生涯を閉じるまで高杉晋作(東行)の菩提
を弔った。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
高杉晋作の墓がある東行庵に行ってきました。

高杉晋作の墓.jpg

高杉晋作は明治維新を迎える前に亡くなった人物で、その才覚を
明治維新後に見てみたかった人物です。
奇兵隊の高杉晋作として有名で、ここ東行庵には晋作の墓や、晋作
に関する資料を集めた東行記念館などがあります。

記念館はひっそりとしていましたが、大きな高杉晋作の写真が掲げ
られ、堂々たる感じでした。
東行庵4.jpg

こちらが東行庵。
東行庵3.jpg
高杉晋作の愛人うのが住んだ庵です。

東行庵の裏の丘には高杉晋作の像。
高杉晋作像 東行庵.jpg

東行庵は緑にあふれていました。秋には紅葉が綺麗そうです。

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著名人の墓
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2009年09月13日

日清講和記念館    (山口県下関市)

山口県下関市の日清講和記念館に行ってきました。

<日清講和記念館>
日清講和記念館.jpg
住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-3
入場料:無料
営業 : 9時〜17時

この記念館は日清講和会議に使われた調度類や貴重な資料などを公開
するため、昭和12年に開館されました。
展示品の中でも特に椅子類はかつての浜離宮の調度で、ランプ、
ストーブ、硯箱、インク壺、朱肉入れなどとともに講和会議の様子を
今に伝える貴重な歴史資料です。

日清講和記念館2.jpg

明治28年(1895年)に隣接する春帆楼を会場に行われた日清
講和会議は世界の外交史に残るもので、日本全権伊藤博文と、清国
講和全権大臣李鴻章の二人を忠臣に和議交渉を行いました。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
赤間神宮の隣にある、日清講和記念館に行ってきました。
日清戦争の結果結ばれた下関条約、その講和会議が行われたのが
この記念館の隣にある春帆楼。
歴史の教科書の中でも太字で出ている有名な条約ですね。

そんな記念館には、会議のテーブルの様子が再現されています。
こんな雰囲気で会議が進んだのか〜って感慨にふけりました。

館の外には全権の伊藤博文と陸奥宗光の銅像が並んでいます。
陸奥宗光・伊藤博文.jpg

清国全権李鴻章は襲撃される事を恐れ、春帆楼から宿のある引接寺ま
で細い小道を歩いたそうです。それが今は李鴻章道という名前にな
っています。

李鴻章道.jpg

李鴻章道2.jpg

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2009年08月22日

覚苑寺     (山口県下関市)

山口県下関市の覚苑寺に行ってきました。

<覚苑寺>
覚苑寺.jpg
住所:山口県下関市長府安養寺3-3-10
駐車場あり(無料)

1698年、長府藩主毛利綱元が宇治黄檗山万福寺七世・悦山道宗
禅師を招き創建。功山寺、笑山寺とともに長府藩の菩提寺となる。
悦山以来学僧を相次ぎ、藩士の中から従学するもの多く、長府藩
文教興隆の拠点となった。
境内地は我が国最初の金属貨幣「和同開珎」を鋳造した長門国鋳銭
所の跡地。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長府にある覚苑寺に行ってきました。
長府の一番奥にあり、最初は行かないで帰ろうかとも思ったんです
が、境内に乃木希典の銅像があるというので、行ってみました。

覚苑寺 乃木希典像.jpg
こちらが乃木希典像です。覚苑寺の境内に堂々立っておられました。

本堂は1794年の建築。重みがある建物です。

境内地は非常に緑が多かったです。

覚苑寺 緑.jpg
木々の種類を見ても、秋には紅葉がきれいなんだろうなと想像出来ます。

狩野芳崖.jpg
長府藩御用絵師で、明治以降の近代美術でも活躍した狩野芳崖の像も
ありました。

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乃木神社    (山口県下関市)

山口県下関市の乃木神社に行ってきました。

<乃木神社>
乃木神社.jpg
住所:山口県下関市長府宮の内町3-8
境内自由
宝物館は志納

乃木神社は1920年の創建。祭神は乃木希典。
乃木希典は明治時代の陸軍の将軍で、東郷平八郎と並んで日露戦争の
英雄。明治天皇の死に殉じています。

乃木希典将軍を祀る乃木神社は東京都内にもありますし、栃木にも
あり僕も行ったことがあります。
長府の乃木神社は今回初めて訪問しました。

乃木神社2.jpg

長府の乃木神社は、乃木将軍に関するいろいろなものを見ることが出来
ます。
乃木将軍は東京生まれですが、長府藩士の息子で、長府藩江戸屋敷生
まれなのです。子供の頃に長府に戻ってきたそうで、その屋敷がここ
に復元されています。

乃木神社 乃木邸.jpg

乃木将軍の銅像です。ここにあるのは乃木夫妻の像でした。

乃木神社 乃木希典像.jpg

乃木将軍と言えばステッセル将軍との水師営の会見。
水師営にあった棗の種から育てた木だそうです。

水師営の棗.jpg

乃木将軍に関する資料館もあります。
入場料は志納。是非資料館もご覧ください。

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功山寺     (山口県下関市)

山口県下関市の功山寺に行ってきました。

<功山寺>
功山寺.jpg
住所:山口県下関市長府川端1-2-3
駐車場あり(無料)
境内自由

1327年の創建。足利市、大内氏など武門の崇敬あつく隆盛を
ほこったが、1557年大内義長がここに自刃、この戦乱によって
一時堂宇の荒廃をみた。
その後1602年、長府藩祖毛利秀元が修営、曹洞宗に転宗した。
その後長府藩毛利家の菩提寺になり、秀元の法号にちなんで功山寺
と改称した。
現在の仏殿は1320年の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として
国宝に指定。幕末には高杉晋作挙兵の地となる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ここも久しぶりの訪問になった功山寺です。
功山寺といえば高杉晋作。第一次長州征伐のおり、高杉晋作はここ
功山寺で挙兵しています。その関係で、境内には高杉晋作挙兵の
像があります。この銅像はなかなか格好良いですね。

功山寺 高杉晋作像.jpg

功山寺 高杉晋作像2.jpg

見所その2は国宝の仏殿。

功山寺仏殿(国宝).jpg
見るからに重厚な建物。鎌倉時代建築の重みのある建造物です。

見所その3、長府毛利家墓所と大内義長の墓。

<毛利家墓所>
毛利家墓所.jpg
功山寺は長府毛利家の菩提寺。こちらが毛利家の墓所です。

<大内義長の墓>
大内義長の墓.jpg
陶晴賢に擁立された大内氏最後の当主。

見所その4。功山寺の名水。
功山寺の名水.jpg
もともとこの一帯は湧き水がよく湧くところだそうです。
功山寺にも名水が湧いています。高杉晋作もこの水を飲んだ事で
しょう。最近では、平成18年に小泉首相(当時)が来て、この水を
飲んだそうです。

平成21年夏旅
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国宝建造物を巡る
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著名人の墓
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赤間神宮     (山口県下関市)

山口県下関市にある赤間神宮に行ってきました。

<赤間神宮>
赤間神宮1.jpg
住所:山口県下関市阿弥陀寺町4-1
駐車場あり(無料)
境内自由

1185年3月24日、源平壇ノ浦合戦に入水された御歳8才の安徳
天皇を祀る天皇社。昭和27年に全焼するが昭和40年に復興。
朱塗りの本殿は竜宮城の様な面持ち。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
平成21年8月14日、赤間神宮に行ってきました。前回行ったの
が平成9年8月11日という事で、12年振りの訪問となりました。

赤間神宮は源平壇ノ浦の戦いに関連する神社で、御祭神は壇ノ浦で
入水した安徳天皇です。
私の知識の範囲では、戦いに敗れて自決した天皇は安徳天皇と
弘文天皇(他にもいたらすいません)
安徳天皇は特に8才という物心つかないうちに源平の戦いにまきこま
れての入水という事で、かわいそうな話です。

安徳天皇絵馬.jpg

赤間神宮は壇ノ浦を望む丘の上にあり、景色も良いです。
また、赤間神宮には昔話でも知られる「耳なし芳一」の芳一堂があり
ます。

赤間神宮 芳一堂.jpg

耳なし芳一像.jpg
芳一堂には平家物語を語る芳一の像があります。
ここ赤間神宮は「耳なし芳一」のお話の舞台でもあるのです。

<平家一門の墓>
赤間神宮 平家一門の墓.jpg
芳一堂の脇には、平家を祀る平家一門のお墓があります。

平成21年夏旅
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大河ドラマの舞台
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著名人の墓
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2009年08月20日

毘沙ノ鼻    (山口県下関市)

山口県下関市の毘沙ノ鼻に行ってきました。

<毘沙ノ鼻>
毘沙ノ鼻.jpg
住所:山口県下関市吉母字御崎
駐車場あり(無料)

東経130度51分37秒、本州最西端の岬「毘沙ノ鼻」に行って
きました。
前日、川棚温泉に泊まり、そこから車で10数分というところです。
一番西の外れという事で、夕暮れに行けば一番良いんでしょうけど、
この日は朝一での訪問です。

駐車場に車を停め、歩いてすぐに本州最西端「毘沙ノ鼻」という看板
を発見。それに加え、小さな灯台みたいなのもありました。

毘沙ノ鼻2.jpg

本当の最西端の石碑はここではなく、はるか下にあるゴミ処理場の
敷地の奥の岩場にあるそうで、一般の人は許可が無いと入れない
そうです。まあそこまでする必要も無いでしょう。

景色は北側が良い感じです。
毘沙ノ鼻4.jpg
切り立った崖が勇壮な雰囲気を醸します。

南側はゴミ埋め立て場みたいになっていて、景色的にはいまいち。
毘沙ノ鼻3.jpg

天気が良いときに行きたかったですね。

ちなみに、この地を訪問した証として到達証明書が下関市からもらえ
るそうです。僕は特に申し込みませんでしたが、記念として良いかも
しれませんね。

平成21年夏旅
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岬・灯台巡り
http://rover.seesaa.net/article/107423997.html

[ここに地図が表示されます]


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2009年06月29日

周防阿弥陀寺   (山口県防府市)

山口県防府市の周防阿弥陀寺です。

<周防阿弥陀寺>
周防阿弥陀寺.jpg
住所:山口県防府市大字牟礼1869
駐車場あり(無料)
拝観料:200円

俊乗房重源上人が後白河法皇の後生安穏祈願のため建立したもので、
1187年開発、1197年竣工。その後文明年間まで約300年
の間、住職はいずれも勅命をもって拝任、周防国務管理を兼ねてい
たという山口県下きっての由緒ある名刹。

周防阿弥陀寺2.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
5年くらい前に山口県防府市の周防阿弥陀寺に行ってきました。
真夏のジリジリする暑さの中の訪問です。
防府は防府天満宮や周防国分寺など、由緒ある社寺がある歴史の町
です。
防府の名刹のひとつ、周防阿弥陀寺。印象としては綺麗なお寺という
感じです。庭園や、本堂に続く階段も青々した木々につつまれ、
すがすがしいお寺でした。
アジサイが約4000本あるという事で、アジサイのシーズンは特に
良いんでしょうね。あいにくその時期ではなかったので、アジサイを
見ることは出来ませんでしたが。

周防阿弥陀寺 本堂.jpg

周防阿弥陀寺3.jpg

周防阿弥陀寺2.jpg



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2008年07月28日

古市・金屋白壁の町並み  (山口県柳井市 観光名所)

山口県柳井市の古市・金屋白壁の町並みを散策しました。

<古市・金屋白壁の町並み>
柳井白壁土蔵の町並み
住所:山口県柳井市柳井古市

柳井は既に室町時代に大内氏の東の要港として重きをなしていま
した。
1663年から干拓が進み、諸国から商人が集まって店舗を構えま
したが、ここ古市・金屋あたりが最も古く市がたち、商業の中心地
として栄えました。
この白壁の町並みは、元禄時代以後の典型的な町屋造りで、江戸時代
の繁栄ぶりがしのばれます。(現地解説より)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
平成14年夏、山口県柳井市の白壁の町並みを散策しました。
柳井に古い町並みがあるという情報を入手しての訪問でした。

町並みは江戸時代の商家の町並み。
土蔵は真っ白で、少し洋風なイメージすら感じました。
町の規模も大きく、なかなかに見応えがある町並みです。
重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。

柳井白壁土蔵の町並み

柳井白壁土蔵の町並み

柳井白壁土蔵の町並み

柳井白壁土蔵の町並み

日本の古い町並み
http://rover.seesaa.net/article/21960937.html



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2008年01月03日

火の山公園で夜景   (山口県下関市 夜景の名所)

山口県下関市、火の山公園で夜景を見てきました。

<火の山公園>


以前は火の山パークウェイが有料でしたが、最近無料開放された
という事で、火の山公園に夜景を見に行ってみました。
いつも夜景は、北九州側の和布刈公園などから見ていましたが、今回
は山口県側からの夜景です。

目の前に関門海峡、関門橋、そして下関市内の海峡ゆめタワーなど
から、対岸の門司の夜景まで眺める事が出来ます。
本当に綺麗です。山口側から夜景を見るならここが一番のスポットか
もしれないですね。

平成19年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/51511781.html

夜景の名所巡り
http://rover.seesaa.net/article/23565397.html

<火の山公園の夜景>
火の山公園 夜景

火の山公園 夜景

火の山公園 夜景
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2006年07月02日

源義経と平知盛像  (山口県下関市)

山口県下関市、壇ノ浦古戦場にある源義経と平知盛の像です。

<源義経と平知盛像>
源義経像(下関).jpg
住所:山口県下関市壇之浦町
駐車場なし

夜中遅くなりましたが、下関の壇ノ浦を通過中に、義経・平知盛の銅像
を発見して写真を撮りました。
この銅像は、源平壇ノ浦古戦場跡に、大河ドラマ「義経」放映記念も兼ね
て造られたもの。
実はこの像が出来たのは新聞かなにかで見て知っていたんですが、すっか
り忘れてまして、車で通りかかって思い出し、急遽車を停めて写真を撮った
って感じです。
壇ノ浦を前に、義経は八艘飛び、知盛は碇を振りかざすポーズ。
平知盛の像が迫力あって良かったです。

【平知盛像】
平知盛像.jpg
カメラの性能が悪いせいもあり、暗い写真になってしまいました。

義経・知盛像

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寂地川と寂地峡五竜の滝 (山口県岩国市 日本の滝百選 日本名水百選)

日本名水100選、日本の滝100選に選ばれる名所、寂地峡(じゃくちきょう)に行ってきました。

<寂地川と寂地峡五竜の滝>
寂地峡.jpg
住所:山口県岩国市錦町宇佐
駐車場あり(無料)
「新岩国駅」から錦川鉄道錦川清流線「錦町駅」
町営バス約60分「寂地峡入口」下車

石見銀山遺跡を出て、今日の宿泊予定地北九州小倉を目指して走っている途中で寂地峡に立ち寄りました。
寂地峡は日本名水100選に選ばれる寂地川、そして日本の滝100選に選ばれる、寂地峡五竜の滝と水に関する観光名所です。
寂地峡五竜の滝は下流から落差15m竜尾の滝、 登竜の滝、 白竜の滝、
竜門の滝、竜頭の滝があり、総称して寂地峡五竜の滝と言われています。
僕が寂地峡に着いたのはもう17時過ぎ。山の合間という事もあり、かな
り暗い状況でした。とにかく早く滝を見ようと駐車場からダッシュ!
五竜の滝の一番下にある竜尾の滝に着き、写真を撮りました。
更に上に登って行こう・・・、と思ったんですが、行く手はかなり暗い!
悩む・・・。結局時間とのせめぎ合いの後に、竜尾の滝だけで退散する
事にしました。滞在時間15分。あっという間の撤退となりました。
時間に余裕を持って、しかも明るいうちに再度散策しようと思いました。
滝から流れる寂地川は、さすが日本名水100選に選ばれるだけあり、
澄んでいて非常に綺麗。
川のほとりはキャンプ場になっていました。ここでキャンプってのも良い
でしょうね。




続きをどうぞ

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