2020年06月01日

大友宗麟の墓   (大分県津久見市)

津久見市にある大友宗麟の墓を参拝してきました。

<大友宗麟の墓>
大友宗麟の墓.jpg
住所:大分県津久見市大字津久見字ミウチ4198-1
駐車場あり(無料)

<大友宗麟について>
大友宗麟の墓4.jpg

<墓について>
大友宗麟の墓3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
津久見にある大友宗麟の墓を参拝しました。
大友宗麟は豊後の大名で、島津氏と九州の覇権を争った大大名です。
キリシタン大名としても知られ、洗礼名ドン・フランシスコと名乗りました。

晩年、島津氏の侵攻を受け、秀吉の臣下として援軍を受けての戦いの中、津久見で
晩年を過ごしこの地で島津義久の降伏を前に亡くなりました。

現地は大友宗麟公園という公園になっていました。

<大友宗麟の墓・キリスト教式>
大友宗麟の墓2.jpg
もともとキリスト教式の墓だった様ですが、秀吉がバテレン追放令を出した為、
子の義統が仏教式の墓に改葬したそうです。
このキリスト教式の墓は昭和になってから造られたものです。

<大友宗麟像>
大友宗麟像.jpg

大友宗麟像2.jpg
小さいながら全身の像と、胸像があります。

平成30年〜31年 年末年始の旅
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著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html

銅像めぐり
http://rover.seesaa.net/article/142026310.html

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2020年05月30日

臼杵城   (大分県臼杵市)

臼杵市にある臼杵城に行ってきました。

<臼杵城>
臼杵城2.jpg
住所:大分県臼杵市臼杵1175
駐車場無し(近隣に観光有料駐車場あり)

<臼杵城について>
臼杵城.jpg

臼杵城1.jpg

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臼杵城は1556年、大友宗麟によって築城されたお城です。
今はそうではないですが、築城時は海に浮かぶ島を利用した城だった様です。
大友氏の後、江戸時代は稲葉氏の居城として明治維新まで存続します。
現在、天守は無く、櫓と本丸跡に護国神社が鎮座しています。

<臼杵城>
臼杵城3.jpg
入口から見る臼杵城は存在感ある城です。横幅があるので、大きく見えます。

臼杵城4.jpg

臼杵城7.jpg
本丸跡にある護国神社。

臼杵城5.jpg
大友宗麟が導入した「国崩し」という大砲。

臼杵城6.jpg
大友宗麟像です。

臼杵城8.jpg
臼杵城からの風景。

平成30年〜31年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2020年05月28日

宇佐駅    (大分県宇佐市)

宇佐市にあるJR宇佐駅に行ってきました。

<宇佐駅>
宇佐駅.jpg
住所:大分県宇佐市大字岩崎1218-6
駐車場無し

日豊本線「宇佐駅」に行ってきました。
何しに行ったか?
それは駅の駅名案内板を見ようと思っての訪問です。
それがこちら。
宇佐駅2.jpg

宇佐といえば、英語表記でまさに「USA」
心なしかアメリカの星条旗に近い様なあやしげなデザイン(^^;

それだけです(笑)

平成30年〜31年 年末年始の旅
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B級観光スポット・珍スポット
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二王座歴史の道   (大分県臼杵市)

臼杵市の二王座歴史の道を散策しました。

<二王座歴史の道>
二王座歴史の道.jpg
住所:大分県臼杵市大字臼杵192−6
駐車場無し(近隣コインパーキング利用)

<二王座歴史の道について>
二王座歴史の道7.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
二王座歴史の道を散策しました。
2002年にも一度訪問しているので、久しぶりの訪問です。
二王座地区は、臼杵の城下町で武家屋敷や寺が並ぶエリア。
かつてはこの地で戦いが繰り広げられた事もあるそうです。

歴史の道用の観光駐車場が無く、有料の市営観光駐車場に車を停めて臼杵城と
二王座歴史の道を散策しました。
武家屋敷の中には家の中も見る事が出来る建物もあり、1時間くらいかけてゆっく
り観光してきました。

<二王座歴史の道>
二王座歴史の道2.jpg

二王座歴史の道3.jpg

二王座歴史の道4.jpg

平成30年〜31年 年末年始の旅
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日本の古い町並み
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戸次川古戦場      (大分県大分市)

大分市にある戸次川古戦場に行ってきました。

<戸次川古戦場>
戸次川古戦場.jpg
住所:大分県大分市中戸次
駐車場あり(無料)

<戸次川の戦いについて>
戸次川古戦場2.jpg

長宗我部信親の墓4.jpg
クリックすると拡大します。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
戸次川古戦場に行ってきました。
1587年、豊後に侵攻した島津軍に対し、大友の援軍に送られた仙石秀久を
主将とする四国の長宗我部、十河の軍がぶつかった戦いです。
軍議で長宗我部元親は味方の加勢を待ってそれから戦いに挑むべきと主張したの
ですが、仙石秀久は聞く耳を持たず川を渡って攻撃すると主張。十河存保もそれ
に同調した為、川を渡って合戦に及びました。

しかしながら、島津軍の釣り野伏にかかり四国勢は壊滅的な打撃を受け敗走。
長宗我部元親は逃げ延びますが、嫡男信親が討ち死に、十河存保も討ち死にする
という結果となります。この敗戦に怒った秀吉は仙石秀久の讃岐国を没収しています。

ここで嫡男を失った元親はその後覇気を失い、人の意見を聞かなくなり、親族内で
も異論のあった四男盛親への家督相続などで後世の評価を落とす事になりました。

戸次川古戦場は、川沿いの国道10号線脇に古戦場の看板があり、そこから東側の
高台に信親の墓、十河一族慰霊碑がありました。

戸次川古戦場3.jpg

<長宗我部信親の墓>
長宗我部信親の墓.jpg

長宗我部信親の墓2.jpg

長宗我部信親の墓3.jpg

<十河一族慰霊碑>
十河一族供養費.jpg

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著名人の墓
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大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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碇山で松平忠直と真田幸村の愛馬栗毛の墓を参拝 (大分県大分市)

大分市の碇山で松平忠直と真田幸村の愛馬栗毛の墓を参拝しました。

<碇山>
碇山.jpg
住所:大分県大分市大字津守5−2
駐車場無し

大分市にある碇山に行ってきました。
碇山は標高56m。大分で一番低い山です。
ここは神と仏が宿るところとして地元住民から信仰されている山です。

熊野神社.jpg

この山には山頂に熊野神社が鎮座。そして山腹にはこの地に配流された
結城秀康の子・松平忠直の墓と、真田幸村の愛馬・栗毛の墓があります。

<松平忠直の墓>
松平忠直霊廟.jpg

松平忠直霊廟2.jpg
松平忠直は大坂の陣での論功行賞に不満で、その後様々な問題を起こし、
最終的に大分に配流される事になり、ここで亡くなりました。

<真田幸村の愛馬・栗毛の墓>
真田幸村愛馬栗毛墓所.jpg

真田幸村愛馬栗毛墓所3.jpg

真田幸村愛馬栗毛墓所2.jpg
真田幸村の愛馬・栗毛は大坂の陣後松平忠直の元に行き、配流に際して
も連れて行った為、栗毛もこの地に墓があります。
そもそも馬の墓というもの自体珍しいものですよね。

平成30年〜31年 年末年始の旅
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著名人の墓
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2014年11月23日

桂昌寺跡/地獄極楽     (大分県宇佐市)

大分県宇佐市にある桂昌寺跡・地獄極楽に行ってきました。

<桂昌寺跡・地獄極楽>
桂昌寺跡 地獄極楽.jpg
住所:大分県宇佐市安心院町東恵良
駐車場あり(無料)
入場料:100円(志納)

<現地解説>
桂昌寺は(室町時代中期開基)は江戸の頃には無住荒廃となったが、江戸の天台
僧午道法印という傑僧が江戸後期の1820年頃、大衆教導のために造った
全国にも珍しい遺跡です。

まず閻魔の庁で閻魔大王から裁判を受け馬頭・牛頭に引きずられて地獄道(36m)
へと進み、途中三途の川の奪衣婆や赤鬼青鬼のいる血の池地獄などが迷路の
闇に浮かびます。
次ぎに菩提坂を越えると極楽道(25m)となり十三仏に救われて来迎弥陀の前
に出ます。
その横の縦穴(5m)を鎖伝いに登ると丘の上には阿弥陀如来を中心とした多く
の菩薩が安置され極楽浄土となっています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
地獄極楽というあやしげな案内板があったため、気になって立ち寄りました。
ここは上の解説にもあるように、江戸時代に造られた仏教の教えを体験するいわゆる
テーマパークの様なものの遺跡です。
こういうものは大変珍しいですね。

順に写真を貼っていきます。

桂昌寺跡 地獄極楽2.jpg
この先に地獄極楽が・・・。

桂昌寺跡 地獄極楽3.jpg
ここが入り口です。

中に入るとまずは閻魔様のいる閻魔庁です。
桂昌寺跡 地獄極楽4.jpg

桂昌寺跡 地獄極楽5.jpg

この先地獄に向かいます。

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2014年11月08日

緒方宮迫東石仏・西石仏   (大分県豊後大野市)

大分県豊後大野市にある緒方宮迫東石仏・西石仏を見てきました。

住所:大分県豊後大野市久士知
駐車場あり(無料)

<緒方宮迫東石仏>
緒方宮迫東石仏.jpg

中央に大日如来、右に不動明王、左に持国天が立っている。

<緒方宮迫西石仏>
緒方宮迫西石仏.jpg

向かって右から阿弥陀如来、釈迦如来、薬師如来の順に並び、
いわゆる三尊形式をなさず平等並列の状態で彫られている。


緒方宮迫東・西石仏とも平安時代後期の作風が感じられるが、豪放な
造形と地域色の強い容姿から鎌倉時代に造られたものと考えられている。

いずれも国指定の史跡。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大分は国東半島をはじめ、各所にこのような磨崖仏がありますね。

平成26年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/403847749.html

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2014年10月23日

豆田町の町並み     (大分県日田市)

大分県日田市、豆田町の町並を散策してきました。

<豆田町>
日田豆田町1.jpg
住所:大分県日田市豆田町
駐車場あり(無料)

<豆田町について>
天領時代に町人地として発展した豆田町とその周辺は、往時の地割りをよく残し
伝統的な建物が群として良好に残っていることから、約10.7ヘクタールの範囲
が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
南北2本の通りと東西5本の通りからなる整然とした町割りや、街区の敷地割りは、
江戸初期の城下町建設時の形状を引き継ぐものです。
豆田町では1772年や1880年、1887年に大火があり、火災を契機に茅葺
の町屋が居蔵造へと変わっていきました。
江戸期から大正期に建てられた居蔵造の町家を中心に、木部を見せる真壁造の町家、
近世の洋館、醸造蔵、昭和初期の三階建家屋等が並び、町毎に特徴ある歴史的景観
を残しています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日田の豆田町に行ってきました。
ここは国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された町です。
日田は江戸時代天領として幕府の直轄地でした。
その町は京都や大阪の影響を受け栄え、現在も豊後の小京都と言われます。

明治に入り大火があり、居蔵造の建物に建て替えられていったという経緯は、
わが地元川越ととてもよく似ています。

昔ながらの町並みは広く残っており、密集度も高く、昔町としてとても雰囲気が
良かったです。
ただここも川越と一緒ですが、街中に車が流れ込み雰囲気を壊している事が気に
なりました。僕も行ってみて思いましたが、駐車場の案内が見当たらず、車客が
迷ってしまいます。実際少し離れたところに市営駐車場があるんですが、そこま
でたどり着けません。その辺は改善の余地があるんじゃないかなと思いました。

<豆田町の町並み>
日田豆田町2.jpg

日田豆田町3.jpg

日田豆田町4.jpg

日田豆田町5.jpg

日田豆田町6.jpg

川越ににもある布遊舎さん
日田豆田町7.jpg

こちらも川越にもあるキッチン遊膳
日田豆田町8.jpg

昔町に進出する寺子屋さんのお店が目に付きました。川越にも同じ店が
あるもので・・・。何かと川越と共通点が多い町です。

平成26年夏旅
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日本の古い町並み
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2014年10月22日

歴史と文学の道    (大分県佐伯市)

大分県佐伯市の歴史と文学の道を歩いてきました。

<歴史と文学の道>
歴史と文学の道.jpg
住所:大分県佐伯市大手町
駐車場あり(無料)

佐伯城の大手門跡から養賢寺までの、山際通りを含むおよそ700mは、
昭和61年(1986年)に「日本の道100選」に選定されました。
佐伯城や毛利家にゆかりの養賢寺、そして国木田独歩が下宿した坂本邸
(現在は国木田独歩館)など歴史的な雰囲気とゆかりのある通りです。

今回は時間が無く、国木田独歩館は中に入りませんでした。

<歴史と文学の道>
歴史と文学の道2.jpg

歴史と文学の道5.jpg

歴史と文学の道3.jpg

歴史と文学の道6.jpg

国木田独歩館
歴史と文学の道 国木田独歩館.jpg

歴史と文学の道4.jpg

平成26年夏旅
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日本の古い町並み
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2014年10月19日

青の洞門    (大分県中津市)

大分県中津市にある青の洞門に行ってきました。

<青の洞門>
青の洞門1.jpg
住所:大分県中津市本耶馬渓町樋田
駐車場あり(無料)

<現地解説>
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた
難所で、通行人が命を落とすとの話を聞いて、ここにトンネルを掘り安全な
道を作ろうと決意し、単身難事業に着手した。その後、托鉢勧進によって採掘
の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30余年かけて掘り抜いた」
と言われている。
現在の洞門は当時からは大きく変化しており、明治40年にはほぼ現在の洞門
に近い形状で大改修が行われ、現在では手彫り洞門の一部を残すのみである。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
超久しぶりに青の洞門を訪問しました。
おそらく17年ぶりです。その頃はお金も無かったので、車中泊の旅をしてまし
て、ここ青の洞門の駐車場に車を停めて1泊しました。懐かしい場所です。
とは言うものの、さすがに久しぶりで洞門のイメージは何となく覚えてましたが、
どこに駐車場があったかとか完全に忘れてました。というか、現地の雰囲気が
かなり変わった様な気がしました。

駐車場に車を停め、歩いて洞門を巡ります。
手彫りで彫った頃と今とではだいぶ変わっているとの事ですが、それでも明治時代
に現在の形になったとの事で、充分に古い歴史遺産だと思います。

青の洞門.jpg

青の洞門3.jpg

青の洞門2.jpg

手彫りの遺構もわずかながら残っており、徒歩でのみ見る事が出来ます。
青の洞門 手彫り.jpg

青の洞門 手彫り2.jpg

この禅海和尚の話をもとに書かれた小説が菊池寛の『恩讐の彼方に』です。
以前この小説を読みました。
中山道の鳥居峠で殺生をした事を悔やみ、その後仏門に入った和尚の罪滅ぼし
みたいなお話だったかと思います。
この小説を読んで現地に行くと、一層良いかと思います。

<禅海和尚の像>
青の洞門 禅海和尚.jpg

青の洞門12.jpg
和尚の像と下の写真は17年前の写真です。デジカメの性能が悪いのと、暗いため
良い写真ではありませんが。
この時はカラリオ Photo CP-100という35万画素のデジカメを使ってました。

平成26年夏旅
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虹澗橋         (大分県豊後大野市)

大分県豊後大野市にある虹澗橋に行ってきました。

<虹澗橋>
虹澗橋.jpg
住所:大分県豊後大野市三重町菅生字柳井瀬4310-43
駐車場スペースあり

<現地解説>
虹澗橋は通称柳井瀬橋という。三重川の河口から5キロメートルにある石造
アーチ橋である。
澗は「谷川」という意味である。三重川の渓谷にかかる華麗な姿から虹澗橋
と命名された。
岡城下から臼杵城下に至る街道のうち、ここ柳井瀬橋は最も交通の難所であり
人馬の通行はもちろん物資の輸送の大きな障害となっていた。
臼杵の甲斐源助、三重市の多田富治ならびに後藤喜十郎は人々の困苦を救済
しようと1820年、臼杵藩に架橋を願い出て許可を得、下ノ江村の名石工
井沢織平を選んで1821年着工、4年の歳月を経た1824年に完工した。
この架橋のため、人馬の交通はきわめて便利となったが、莫大な出費によって
三人の豪商は家運を傾けたという。
以来170余年美しい姿を保ちながらよく過酷な交通量に耐え、1988年
上流に架けられた新虹澗橋に使命を譲った。
平成11年に国指定の重要文化財。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
豊後大野市にある虹澗橋を見に行ってきました。

美しい石橋で、ながらく交通の要所として使われてきたものです。
上部はアスファルト舗装されており、かつては車もここを通ったんだなという
事が分かります。
今は封鎖されています。

虹橋.jpg

江戸時代末期の橋ですので、当然構造計算なんて話も無いなか、これだけの耐力の
ある橋を造った当時の技術に感服します。
今は文化遺産として、その美しさを眺め、当時を偲びたいと思います。
渓谷もとても綺麗な感じでした。

虹澗橋.jpg

平成26年夏旅
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原尻の滝     (大分県豊後大野市)

大分県豊後大野市にある原尻の滝を見に行ってきました。

<原尻の滝>
原尻の滝1.jpg
住所:大分県豊後大野市緒方町原尻
駐車場あり(無料・道の駅原尻の滝利用)

<現地解説>
原尻の滝は、大野川の支流「緒方川」にかかる滝で、高さ約20m、幅約100m、
上空から見ると美しい弧を描いている美しい滝です。
普段は穏やかに水が落ちるこの滝ですが、ひとたび大雨が降ると一気に水量が増し、
激しく流れる滝に変わります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
豊後大野市にある日本の滝100選「原尻の滝」を見に行ってきました。
道の駅が整備され、観光客も大勢くる観光地です。
「東洋ナイアガラ」と呼ばれる滝ですが、行った日は水が少なくその豪快さは
感じることが出来ませんでした。

滝の周辺をぐるっとまわる事が出来る遊歩道も整備されていて快適です。
駐車場に停めて数分で滝を見る事が出来、滝到達の難易度は0に等しいですの
で、子供でもOKです。
出来れば水量が多いときに見たいものですね。

<原尻の滝>
原尻の滝3.jpg

原尻の滝2.jpg

原尻の滝4.jpg



平成26年夏旅
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日本の滝巡り
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2014年10月15日

稲積水中鍾乳洞    (大分県豊後大野市)

大分県豊後大野市にある稲積水中鍾乳洞に行ってきました。

<稲積水中鍾乳洞>
稲積水中鍾乳洞.jpg
住所:大分県豊後大野市三重町中津留300
駐車場あり(無料)
入場:1200円

<現地解説>
稲積水中鍾乳洞の始まりは、今からおよそ2億数千万年前、日本列島の
骨格を制するとされる地層が形成された太古の昔に遡ります。地球上では
恐竜が全盛期を迎え、人類が出現、やがて氷河期に入ろうとしていました。
ちょうどその頃、稲積水中鍾乳洞の原形が誕生したと考えられています。
鍾乳石の発達が始まったのは今から30万年前とされており、今からおよそ
8万5000年前に起こった阿蘇山の大噴火によって、この鍾乳洞は完全に
水没してしまいました。
その後長いときが流れ、ある日、白山川で川遊びをしていた地元の子供たちが
水中に穴を見つけました。これが鍾乳洞の入り口でした。
この偶然の発見によって、昭和51年、専門のダイバーによる調査と観光開発
が始まり、昭和52年10月15日観光洞窟としてオープンしました。
まず水中洞が公開され、平成3年に新生洞が公開されました。
人口のトンネルによって、いくつかの自然の空洞を連結した洞内は、水中洞、
新生洞それぞれ300m、世界的にも大変珍しい貴重な水中鍾乳洞が私たち
の前にその姿を現したのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
稲積水中鍾乳洞に行ってきました。
水中鍾乳洞という名前だけあって、洞内にはいくつもの地底湖の様なものがありま
した。どこまで続いているのか分からない様な深いものです。
ライトアップもありとても神秘的な風景です。

地底湖の大きさでは岩手県の龍泉洞も大きいですが、こちらは小さいながら洞内に
沢山の湖というのか、水穴がありとても美しいです。
入場料は高いですが、見る価値は充分ありました。

<稲積水中鍾乳洞>
稲積水中鍾乳洞2.jpg

稲積水中鍾乳洞4.jpg

稲積水中鍾乳洞3.jpg

稲積水中鍾乳洞6.jpg

稲積水中鍾乳洞5.jpg

稲積水中鍾乳洞7.jpg

平成26年夏旅
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日本の名水巡り
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石垣原古戦場 / 大友義統本陣跡    (大分県別府市)

石垣原古戦場めぐり、大友義統本陣跡に行ってきました。

<大友義統本陣跡>
石垣原古戦場 大友義統本陣.jpg
住所:大分県別府市南立石本町
駐車場無し

石垣原の戦いについてはこちらをご覧ください。
http://rover.seesaa.net/article/406779218.html

大友義統は立石砦に本陣をしき右翼に吉弘統幸、左翼に宗像掃部の陣を
ならべ鶴翼の陣をとった。木付城攻略に失敗した大友軍は石垣原に討って
出て6時間にわたる戦闘に敗れた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大友義統本陣跡です。
別府市の西部、大分道別府ICから近く、堀田・観海寺温泉の近くにある高台です。
ここから正面に石垣原と黒田軍が陣取った実相寺山を見る事が出来ます。

石垣原古戦場 大友義統本陣2.jpg

現地には大友義統本陣跡の碑と、大友本陣の歌というあやしげな歌碑が。

石垣原古戦場 大友義統本陣3.jpg
歌詞もすごいですね。どんな歌なんでしょう。
ネットとかで調べてみましたが、詳細不明です。

<海雲寺>
石垣原古戦場 海雲寺.jpg
本陣のすぐ近くにある海雲寺です。
合戦後、大友義統はこの寺で降伏に応じ、剃髪し妹婿でもある母里太兵衛に
伴われ官兵衛のもとに降りました。

平成26年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/403847749.html

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

古戦場めぐり
http://rover.seesaa.net/article/159539121.html

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2014年10月13日

石垣原古戦場の碑 / 戦死者供養塔   (大分県別府市)

石垣原古戦場の碑を見に行ってきました。

<石垣原古戦場の碑>
石垣原古戦場の碑.jpg
住所:大分県別府市荘園町3組
駐車場なし

石垣原の戦いについてはこちらをご覧ください。
http://rover.seesaa.net/article/406779218.html

石垣原の戦い最大の激戦地七ッ石から少し行ったところに石垣原古戦場の碑
があります。

上の写真の碑とともに、ここには石垣原の戦いで亡くなった多くの兵を
祀るため、石垣原殉難烈士の碑が建立されています。

【石垣原 殉難烈士の碑】
石垣原古戦場 殉難烈士の碑.jpg

また、七ッ石で自刃した大友方の武将吉弘統幸の辞世の句を刻んだ碑も
ありました。大きな碑です。

【吉弘統幸辞世の句碑】
吉弘統幸の碑.jpg
「明日は誰が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」という辞世の
句が刻まれています。

石垣原古戦場の碑2.jpg

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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石垣原古戦場 / 七ッ石    (大分県別府市)

石垣原古戦場めぐり、激戦地「七ッ石」に行ってきました。

<石垣原古戦場・七ッ石>
石垣原古戦場 七ッ石.jpg
住所:大分県別府市荘園2組3
駐車場無し

石垣原の戦いについてはこちらの記事をご覧ください。
http://rover.seesaa.net/article/406779218.html

<現地解説>
石垣原に布陣した大友・黒田両軍は山を下り七度にわたり戦い、七ッ石
付近の原野は血に染まったと語り継がれています。
宗像鎮続は斃れ、傷ついた吉弘統幸は今はこれまでと血刀を杖に家来
共々引き連れて「七ッ石」を跡に石垣原付近まで昇り、遙か彼方別府
湾上を昇り来る月影を眺めながら
「明日は誰が草むす屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」と辞世の句を
詠んで自刃した。その時、後を追ってきた黒田方の武将小栗治左右衛門
は統幸の首をとり黒田の陣に引き上げたという。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石垣原古戦場めぐり、七ッ石に行ってきました。
ここが石垣原の戦いで一番の激戦となった場所だそうです。
現在は七ッ石神社という神社があり、公園になっています。

石垣原古戦場 七ッ石2.jpg

また、公園の奥には七ッ石温泉という小さな公衆浴場があります。
石垣原古戦場 七ッ石3.jpg
150円で入れるらしいですが、見た目入りづらい雰囲気だったので、
温泉には入っていません(^^;

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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2014年10月12日

吉弘神社     (大分県別府市)

大分県別府市にある吉弘神社に行ってきました。

<吉弘神社>
吉弘神社.jpg
住所:大分県別府市石垣西6-6-36
駐車場あり(無料)
境内自由

吉弘神社は石垣原の戦いで戦死した大友軍の武将・吉弘統幸(よしひろむねゆき)
を祀った神社です。
住民たちは、統幸公を称え偲び寛永九年から十年頃、石祠を建てました。
その祠に詣でると、猛将の威力で難病も平癒すると、参拝が絶えなかったと言われて
います。
そして大正の時代、吉弘氏の後裔や住民有志により本殿・拝殿が造営され、現在の拝殿
は平成十三年に造営されました。

吉弘神社2.jpg

吉弘神社3.jpg

本殿裏に吉弘統幸の墓があります。
吉弘統幸の墓.jpg
墓は総高1.85mで頭部は丸く加工され前面は平滑に削り、額部の突出
があるなど板碑の形式を踏まえた様子がうかがえます。

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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著名人の墓
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2014年10月09日

石垣原古戦場 / 黒田如水本陣跡    (大分県別府市)

石垣原古戦場めぐり、黒田如水本陣跡に行ってきました。

<黒田如水本陣跡>
黒田如水本陣跡.jpg
住所:大分県別府市鶴見28
駐車場なし

石垣原の戦いについてはこちらの記事をご覧ください。
http://rover.seesaa.net/article/406779218.html

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石垣原古戦場のうち、黒田如水の本陣跡です。
現在は小さな児童公園になっています。

黒田如水本陣跡2.jpg

その児童公園の中に、「黒田如水本陣跡」の碑があります。

黒田軍先遣隊の井上九郎衛門と野村市右衛門はここに布陣し本体が到着
する前に大友軍を潰走させました。

場所が分かりづらいので、下の地図を参照ください。

平成26年夏旅
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大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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2014年10月08日

石垣原古戦場 / 実相寺山   (大分県別府市)

大分県別府市で石垣原古戦場めぐりをしてきました。

<石垣原古戦場/実相寺山>
石垣原古戦場 実相寺山.jpg
住所:大分県別府市実相寺
駐車場あり(無料)

<石垣原の戦いについて>
秀吉なきあと、黒田官兵衛の嫡子黒田長政は5500の兵を率いて家康の会津
攻めに参戦。その後、石田三成の挙兵の情報を知った官兵衛は、浪人から百姓
まで寄せ集めの9000の軍勢を率いて1600年9月9日豊後へ出撃しまし
た。豊後高田城の竹中重利を攻撃後、大友軍が木付城を攻撃していると聞きつ
け救援のために2000〜3000の軍勢を派遣(井上・野村隊)。
官兵衛の本陣は西軍の熊谷直盛の安岐城攻めを中断し、木付城へ向かいました。
官兵衛の接近を知ると大友軍は立石まで退却。黒田軍は立石に対峙する実相寺
山と角殿山に陣をしき、このあたりに広がる石垣原を舞台にした戦いの火ぶた
が切られました。
この戦いは「九州板関ヶ原の戦い」と言われ、多くの有力武将が討ち死にした
大友軍が降伏する結果となりました。
黒田軍はその後も快進撃を続けますが、家康が「関ヶ原の戦い」で西軍に勝利
したため停戦となり「あわよくば天下を」という野望を抱いていた官兵衛の
夢はここで終わったのでした。

【石垣原古戦場・全体図】
石垣原 MAP.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石垣原の戦いの古戦場めぐりをしました。
最初に行ったのが実相寺山です。
ここは木付城を死守した細川忠興の家臣松井康之らが黒田軍と共に布陣した
場所です。

石垣原古戦場 実相寺山2.jpg
こちらが実相寺山から見た景色です。前方が霞んでいるためよく分かりませんが
天気が良ければ前方に大友義統の本陣を眺める事が出来る場所です。

実相寺というお寺があった場所との事ですが、戦火で焼失。
今は仏舎利塔と思われる塔のみがありました。
石垣原古戦場 実相寺山3.jpg

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大河ドラマの舞台
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古戦場めぐり
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2014年10月06日

沈堕の滝     (大分県豊後大野市)

大分県豊後大野市にある沈堕の滝を見に行ってきました。

<沈堕の滝>
沈堕の滝 雄滝.jpg
住所:大分県豊後大野市大野町矢田
駐車場あり

沈堕の滝は、大野川本流にある「雄滝」と大野川支流である平井川にある「雌滝」
の2つの滝によって構成されています。

【全景】
沈堕の滝 全景.jpg

雄滝は幅97m、高さ17m、雌滝は幅4m、高さ18mあり、この本流と支流
のぶつかりが滝を生んだと言われています。
この滝は今から600年前に活躍した「雪舟」により水墨画として描かれ、江戸
時代の地誌「豊後国志」にも記載されています。
「垂直分かれて十三条をなす」と表された滝の流れは人の手が入ることで実に
数奇な運命をたどって現在に至ります。

【雌滝】
沈堕の滝 雌滝.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
沈堕の滝を見に行ってきました。
雄滝・雌滝があり、雄滝はかなり遠くに見る形になりますが、横幅の広い
勇壮な滝です。雌滝は角度が悪くて全景がよく見えませんでした。

雄滝は遠目にやや不自然に見えます。
何か人工的な感じがします。
これは、雄滝のすぐ上流に沈堕発電所が建設されて、取水用の堰が設けられた為、
不自然な水の流れに見えるものです。

この滝は「大野ナイアガラ」という別名があるそうです。

平成26年夏旅
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日本の滝巡り
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2014年10月05日

東椎屋の滝    (大分県宇佐市)

大分県宇佐市(旧安心院町)にある東椎屋の滝に行ってきました。

<東椎屋の滝>
東椎屋の滝.jpg
住所:大分県宇佐市安心院町東椎屋
駐車場あり(200円)

<現地解説>
東椎屋の滝は、絶壁の上部を新耶馬溶岩、下部は塊岩によって形成され、
絶壁部岩様の縦の節理が特徴であり、国指定名勝耶馬溪の内として多くの
参観者に「九州華厳」の別名で親しまれ、直下型瀑布で落差85mのその
端麗な姿を披露している。
また、滝壺から流れ出る下流数百メートルの渓谷、渓流の美しさはこの滝
の特徴であり、春には新緑に囲まれた自然美を誇り、渓谷に生息する河鹿
蛙の美しい鳴き声が静かな沢に響き年間を通じて多くの観光客が訪れて
いる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日本の滝100選に選ばれている東椎屋の滝を見に行ってきました。
国道からそれてすぐにあるので、車で悪路を走る必要もなく、到着難易度は
低い滝です。駐車場は何気に有料です(200円)
結構広い駐車場があります。観光バス等も来るんでしょうね。

そこから遊歩道を歩きます。

東椎屋の滝2.jpg

東椎屋の滝3.jpg
遊歩道は足場が悪いところもあり、慎重に歩く必要があります。

遊歩道を歩くこと7〜8分。東椎屋の滝に到着します。

<東椎屋の滝>
東椎屋の滝4.jpg
いや〜素晴らしい滝です。見て感動しました。
滝は直瀑が美しいですね。別名「九州華厳」と言われるそうですが、その名に恥じ
ない美しさ、雄大さです。
美しい滝にここから離れるのが名残惜しい様な感じさえしました。
久々に滝を見て感動しました。

<クリックすると拡大します>
東椎屋の滝 大.jpg

平成26年夏旅
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日本の滝巡り
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2014年09月17日

佐伯城      (大分県佐伯市)

大分県佐伯市にある佐伯城に行ってきました。

<佐伯城>
豊後佐伯城1.jpg
住所:大分県佐伯市大手町1-1-1
駐車場あり(無料)
入城自由

<現地解説>
城山山頂の城趾は海抜140m、遠く南豊の山々をめぐらし、番匠川はまがり
くねって佐伯湾にそそぎはるかに豊後水道をへだてて四国の島山が霞んで見える。
1601年4月、日田より入封の初代毛利高政はこの地を相して佐伯荘2万石の
本拠地と定め、まず山頂に築城の工を起し、城下町の建設にかかった。
三層の天守閣をもつ本丸を中心に二の丸・西の丸を西南に伸ばし、北の丸を東北
に広げたあたかも舞鶴の翼を張った姿に自ずと鶴屋城と名付けられ、また鶴城と
呼ばれた。城は4年後の1605年に完成したがほどなく焼失。その後復興を
あえて行わず、1637年山麓に三の丸を開き、大いに殿館を営んで以来
二百数十年佐伯藩政はもっぱらここで執られた。それは山城の不便さを避けての
事である。明治初年の版籍奉還・廃藩置県によって廃城となった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大分県佐伯市の佐伯城に行ってきました。
佐伯湾を見下ろす山頂にある山城です。
よって本丸跡まではちょっとした山登りです。

豊後佐伯城2.jpg
こんな道を上っていきますが、道はきちんと整備されているので、悪路では
ありません。山頂までは片道20分くらいかかります。

山頂には建物は残っていませんが、当時の石垣がほぼそのままの形で残っています。

豊後佐伯城3.jpg

豊後佐伯城5.jpg

豊後佐伯城6.jpg

豊後佐伯城7.jpg
古城の良い雰囲気を感じることが出来ます。

明治の文豪国木田独歩は佐伯城の景色をこよなく愛したそうで、山頂には
独歩の碑がありました。

<独歩の碑>
豊後佐伯城 独歩碑.jpg

<佐伯城からの風景>
豊後佐伯城4.jpg

平成26年夏旅
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日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html

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2014年08月31日

城井神社     (大分県中津市)

大分県中津市にある城井神社に行ってきました。

<城井神社>
城井神社.jpg
住所:大分県中津市二ノ丁
駐車場あり(無料)
境内自由

<現地解説>
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る16代およそ400年の間
豊前国守として徳政を布いた。
1587年5月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田官兵衛に、
二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治12万石に移封の御証判を
与えた。
鎮房は累代の墳墓の地の安堵を願い、このご朱印状を返上したため、
宇都宮一族は黒田官兵衛、長政と豊前の地で死闘を繰り返す事となり、
黒岩山合戦では長政を敗退させた。
そこで秀吉は官兵衛と謀り所領安堵を条件として、長政と鎮房の息女
千代姫との婚を約し和睦した。
1588年4月20日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
1591年、長政は深く感ずる処があって城内守護紀府大明神として
鎮房を祀り、福岡移封後はその地に警固大明神として祀った。
1705年、小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後
幾度かの変遷の後、城井神社として改められた。

城井神社3.jpg

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
平成26年1月29日、大分県中津市の城井神社に行ってきました。
中津城の敷地の一角に城井神社はあります。
この神社は、豊前に移封した黒田官兵衛・長政親子と争った武将宇都宮
鎮房を祀った神社です。

城井神社2.jpg

城井神社3.jpg

宇都宮鎮房は中津城で謀殺され、その家臣は合元寺で激戦の末討ち取られ
ました。

【合元寺】
http://rover.seesaa.net/article/388830641.html

この城井神社は黒田長政によって中津城の一角に建立されたものだそうです。
敵将を自分の城に祀るという事は大変珍しいと思います。
それだけ、思うところがあったんでしょう。
黒田官兵衛の戦いの中で、唯一後味の悪い戦いがこの戦いという事になりそう
です。

城井神社の脇には扇城神社という神社があります。

扇城神社.jpg
こちらは宇都宮鎮房の従臣が祀られています。

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

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2014年08月24日

後藤又兵衛の墓     (大分県中津市)

大分県中津市にある後藤又兵衛の墓に行ってきました。

<後藤又兵衛の墓>
後藤又兵衛の墓.jpg
住所:大分県中津市耶馬溪町大字金吉
駐車場あり(無料)

後藤又兵衛は1560年、播州で生まれ父基国は同じ播磨国三木城主
別所家の家臣で誠実果敢の武将であったが、又兵衛がまだ少年の頃、
若くして自刃した。父の遺言により、黒田官兵衛に仕えて心身ともに
鍛え、その心の剛胆さと剣槍の連術により、名実共に天下に聞こえた
勇将となった。1587年秀吉の九州征討のとき、黒田官兵衛について
南下し、黒田が豊前中津に入封して国内の土豪を鎮定するとき、城井
谷の剛将宇都宮鎮房を降伏させた功労が大であったという。
黒田官兵衛・長政親子が筑前博多へ入封すると黒田二十四将の猛将と
して1万6000石を与えられて大隈城主となったが、黒亜親子とも
間隙を生じて浪人となり、細川忠興をはじめ諸国の大名から招かれた
がこれを受けず、旧主の邪魔などがあってことごとく辞し、大坂の陣
がおこると秀頼の招きに応じて入城。夏の陣では大和方面に出馬して
戦功があったが、道明寺河原で討ち死にしたと伝えられる。
しかし一説には大坂方の敗戦後は放浪の旅で西下し、縁故のあるこの
地へ落ち延び隠棲の中で、豊臣家の再興を期していたが風の便りに
豊臣家廃嫡の不運を知り、遂に自刃したと伝えられる。
しばらく時が経ち、村人は自刃した武士が後藤又兵衛であった事を知り
墓を建てたが後に伊福茂助が昔の墓の荒廃を見かねて立て替えたのが
宝暦13年(1762年)であった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大分県の耶馬溪の奥地にある後藤又兵衛の墓を参拝してきました。
何でこんな所にと思う場所に又兵衛の墓がありました。

まわりの雰囲気はこんな感じの山の中です。
後藤又兵衛の墓3.jpg

この墓も又兵衛は実は生きていたという伝説に基づくもので、実際どうな
のかよく分からないものです。

後藤又兵衛の墓2.jpg
こちらがお墓。
「義刃智光居士」と書いてあり、どこにも後藤又兵衛の名前はありません。
徳川の世ゆえに、又兵衛の名前を出すのを控えたものと思われます。

一城の主になりながら、最期は大坂の陣での末路。後藤又兵衛の生き方には
波瀾万丈というか、まさに武士というものを感じるものがあります。

平成26年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/403847749.html

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html

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2014年03月22日

円応寺    (大分県中津市)

大分県中津市にある円応寺に行ってきました。

<円応寺>
円応寺 中津.jpg
住所:大分県中津市寺町961-2
駐車場:なし
境内自由

1587年、黒田官兵衛の開基で見道大和尚の開山。
黒田氏福岡に転封後、細川氏、小笠原氏に崇敬を受ける。
小笠原氏城主の時、天仲寺より十一面観音像を移し、寺内に観音堂を建立
する。墓地には儒学者山川東林、奥平家の重臣桑名家、東條家の墓所や、
有名な河童の墓・池などがある。

江戸時代の中期、寂玄上人が河童共を仏の道に入らせ修行の末、河童
の頭目三匹に戒名を授けた。河童達は上人への恩返しに寺を火災から
守ったという。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
中津市の観光ガイドに河童の寺という文字があったので行ってみました。
河童と言えば岩手の遠野か?というイメージなんですが、ここにも
河童伝説があるんですね。
境内にお墓まであるのにはびっくりです!

円応寺 中津 河童の墓.jpg

円応寺 中津 河童の池.jpg

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2014年03月12日

福沢諭吉像     (大分県中津市)

大分県中津市、JR中津駅前にある福沢諭吉像です。

<福沢諭吉像>
福沢諭吉像 中津駅前.jpg
住所:大分県中津市島田

大分の中津と言えば、今年は大河ドラマの影響もあり黒田官兵衛が
盛り上がっておりますが、以前から中津といえば福沢諭吉というのが
一般的ではないでしょうか。

幕末の中津藩士。その後、慶應義塾を創立します。
そんな中津の偉人福沢諭吉の像が駅前のロータリーに建っています。
1万円札の肖像になった頃の年齢の諭吉像です。

銅像めぐり
http://rover.seesaa.net/article/142026310.html


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2014年02月23日

福沢諭吉旧居    (大分県中津市)

大分県中津市にある福沢諭吉旧居に行ってきました。

<福沢諭吉旧居>
福沢諭吉宅1.jpg
住所:大分県中津市留守居町586
駐車場あり
入場:400円

福沢諭吉は1835年、大坂の中津藩蔵屋敷で13石2人扶持の
下級武士福沢百助の二男として生まれました。1歳で父と死別し、
母子6人で中津に帰郷。
最初に住んだ家は、大坂赴任前の父が住んでいた小さな家で、
建物は現存しませんが、宅跡として整備され見学することができます。
その後移り住んだ家が、現在残されている福澤旧居です。

福沢諭吉宅2.jpg

福沢諭吉宅3.jpg

土蔵
福沢諭吉宅 土蔵.jpg

幕末の中津藩と言えば福沢諭吉しか思い浮かばないなという
くらい、中津と言えば福沢諭吉という気がします。
ただ、福沢諭吉は生まれたのは大坂の様です。1歳で父と死別
したことから中津に戻ってきたそうです。

その後、緒方洪庵の敵塾で学ぶためまた大坂に出ますが、明治
になってから中津に帰ったりしている様です。

福沢諭吉の旧居は公園になっており、旧居と福沢諭吉記念館という
資料館があります。資料館には福沢諭吉の生涯についての展示や、
発行番号1番の1万円札などが展示されていました。

<福沢諭吉胸像>
福沢邸 福沢諭吉胸像.jpg

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中津城     (大分県中津市)

大分県中津市にある中津城に行ってきました。

<中津城>
中津城.jpg
住所:大分県中津市二ノ丁本丸
駐車場あり(無料)
入場:400円

中津城が歴史に登場するのは1587年、黒田官兵衛が豊臣秀吉に豊前
の六郡を与えられ、山国川の河口デルタである中津の地を選び、翌年
築城を始めたことによる。
軍事的にも西に山国川、南と東に大家川、北に周防灘を控えた要害の
地であった。同時に瀬戸内海に面し、畿内への重要な港でもあった。
度重なる戦のため、なかなか工事もはかどらないまま、1600年
関ヶ原の戦いなどの功によって筑前52万石への加増転封し、中津を
去った。黒田氏のあとには細川忠興が豊前一国と豊後国二郡の領主と
して入部した。最初中津城を居城とし、弟の興元を小倉城においた。
1602年、忠興は居城を小倉城に変更した。
1615年、一国一城令が出され、忠興は中津城の普請を一旦中止
した。小倉城以外に、中津城も残されるよう老中に働きかけた結果、
中津城の残置が決まった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
大河ドラマ『軍師 官兵衛』で盛り上がる中津城に行ってきました。
中津城は黒田官兵衛が築城したお城です。
自然の川を濠の様に利用した平城です。海にも近く、もしかしたら
当時は海に隣接していたのかもしれません。その立地などは戦国末
に天下を狙っていたという話もある黒田官兵衛ならではという感じ
がします。

現在の中津城の天守は昭和になってからの再建で、中は博物館に
なっています。

中津城3.jpg

中津城4.jpg

中津城5.jpg

石垣は黒田時代のもの、細川時代のものがともに残ります。

中津城2.jpg
この石垣の写真をご覧ください。
右と左で石垣積が違います。右側が黒田官兵衛時代の石垣、左側が
細川忠興時代の石垣です。こうもはっきり分かれて残っているのも
すごいなと思います。

<天守台より>
中津城6.jpg

中津城7.jpg

現在中津城では、大河ドラマに関する小さい展示館や、官兵衛
おみやげ処など大河に関するものも臨時で造られています。
今年注目の中津城でした。

大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html

日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html

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2014年02月16日

中津もろまち    (大分県中津市)

大分県中津市、もろまちという街を歩いてきました。

<もろまち>
中津 もろまち.jpg
住所:大分県中津市諸町

江戸時代以前は町が繁昌するようにとの意味をこめ「茂路町」と書きましたが、
細川忠興が1621年中津城下に町割りの令を出してからいろんな職業の人が
特にこの町に住みつくようになりましたので「諸町」と書くようになり現在に
至っています。
明治・大正時代に入ってからは商家が軒を連ね、その間を縫って、旧士族、医者
弁護士、味噌醤油、酒、菜種油、大工、左官、など実に様々な人が住んでいました。

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中津の「もろまち」という通りを歩きました。
中津城下でも、商人などが多く住んだエリアの様です。
中津城下もあまり昔の面影は残っていませんが、もろまちはかすかに
昔日の面影が残る町です。「むろや」という醤油屋さんが古い建物で
営業中。1716年(享保元年)創業の醤油屋さん。こういう店は
味がありますね。

中津 もろまち2.jpg

<中津・もろまち>
中津 もろまち3.jpg

中津 もろまち4.jpg

中津 もろまち5.jpg

中津 もろまち6.jpg

日本の古い町並み
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合元寺    (大分県中津市)

大分県中津市にある合元寺に行ってきました。

<合元寺>
合元寺.jpg
住所:大分県中津市寺町973
駐車場なし
境内自由

<現地解説>
通称「赤壁」といわれるこの寺は、浄土宗西山派。
開山空誉上人は1587年、黒田官兵衛に従って姫路から中津に
来錫した。その後。1589年、官兵衛が前領主である
宇都宮鎮房を謀略結婚により中津城内に誘殺したとき、その従臣
らが中津城を脱出しこの寺を拠点として奮戦し、最期を遂げた。
以来、門前の白壁は幾度塗り替えても血痕が絶えないので、遂に
赤色に塗られるようになった。当時の激戦の様子は現在も庫裏
の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
また戦死した宇都宮家の家臣は合葬し、寺内の延命地蔵菩薩堂に
祀り菩提を弔った。その空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったと
言われ、文武の道に秀で世人の崇敬が篤かったため、後事を恐れ
後に黒田長政に福岡城で誘殺されたという哀史を秘めた寺である。

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黒田官兵衛ゆかりの寺、合元寺に行ってきました。
黒田官兵衛は秀吉より豊前の地を与えられ、中津に城を築きました。
中津には地元の豪族・宇都宮氏がいましたが、それを官兵衛は
謀殺。その後、この寺その家臣らとの激戦が繰り広げられたとの
事です。その返り血で壁が染まり、その血を隠すため赤く塗った
という怖い伝説のお寺。他にも血痕が付いた寺とか屏風とかいろい
ろありますが、このお寺もそんななかの一つです。

<合元寺>
合元寺2.jpg

合元寺5.jpg

合元寺3.jpg

合元寺4.jpg

大河ドラマの舞台
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2008年01月03日

豊後高田昭和の町  (豊後高田市 観光名所)

大分県豊後高田市の昭和の町に行ってきました。

<昭和の町>
豊後高田昭和の町
住所:大分県豊後高田市新町


<昭和の町について>
豊後高田市の商店街は江戸時代から明治・大正・昭和30年代にかけ
て国東半島一の賑やかな町として栄えていました。
しかし高度経済成長を境に徐々に元気を失い、現在を迎えています。
豊後高田「昭和の町」は、そんな商店街に再び賑わいと元気をよみ
がえらせようと平成13年9月にはじまったまちづくりです。

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豊後高田で昭和の町という町おこしが始まったという事を雑誌で知
り行ってみました。
昭和13年からはじまったという町おこし、最近の昭和レトロブー
ムにうまく乗ったなという感じがします。

おそらくそれまでは何でも無かったであろう商店街に観光客が大勢
押し寄せていました(僕もその一人ですが)

レトロな看板や、町の雰囲気、とても良いですね(^-^)

写真は続きをご覧ください。

平成19年夏旅
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真木大堂    (大分県豊後高田市 観光名所)

大分県豊後高田市の真木大堂に行ってきました。

<真木大堂>
真木大堂
住所:大分県豊後高田市田染真木1796


<由緒>
真木大堂の古は、六郷満山65ヶ寺のうち最大の寺で本山本寺とし
て栄えた。
馬城山伝乗寺といい、奈良時代の養老年間に仁聞菩薩の開基で、飛騨
の匠が建立したと伝えられるが、仏像の作風からみて平安時代の建立
で往時は広大な境内の中に七堂伽藍を備えて隆盛を誇った大寺院であ
った。
当初の伽藍は火災で焼失し、江戸時代に再建された大堂のみが伝え
られる。
現存する九体の仏像(国指定重要文化財)は藤原洋式による優れた
できばえを示し、古来多くの人々の信仰と守護のもとに今日に至って
いる。

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国東の仏様めぐり、最後が真木大堂です。
真木大堂はかつて国東における最大の寺院であったそうです。
現在は大堂という本堂が残るのみです。
真木大堂の中には威厳ある仏像が残っています。あいにく中は写真
撮影不可なので、写真がありません。
真木大堂は建物より仏像こそ見所かと思いますので、是非中に入って
みてください。

平成19年夏旅
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元宮磨崖仏   (大分県豊後高田市 史跡 観光名所)

大分県豊後高田市の元宮磨崖仏です。

<元宮磨崖仏>
元宮磨崖仏
住所:大分県豊後高田市田染元宮
駐車場あり(無料)

元宮磨崖仏は、室町時代の作で国の史跡に指定されています。
富貴寺から真木大堂に向かう途中の県道沿いにありました。
不動明王を中心として、右に矜羯羅童子、毘沙門天、左に持国天、
地蔵菩薩が並びます。

大分には臼杵の石仏をはじめ歴史的な磨崖仏が多いですね!

平成19年夏旅
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元宮磨崖仏
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三の宮の景   (大分県豊後高田市 観光名所)

大分県豊後高田市の三の宮景に行ってきました。

<三の宮の景>
三の宮の景
住所:大分県豊後高田市田染上野
駐車場あり(無料)

富貴寺から真木大堂に向かう途中、「三の宮の景」という標識を発見
して立ち寄ってみました。
三の宮の景は桂川の河岸に連なる奇岩の渓谷です。
巨大な柱の様な岩がとても壮観な景色でした。

三の宮の景

三の宮の景

平成19年夏旅
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三の宮景
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2008年01月02日

富貴寺   (大分県豊後高田市 国宝 観光名所)

大分県豊後高田市の富貴寺に行ってきました。

<富貴寺>
富貴寺
住所:大分県豊後高田市田染蕗2395


<由緒>
718年仁聞が開基したと伝えられています。
富貴寺の阿弥陀堂は平安末期の建築で、九州最古の木造建築物。
国宝指定の建造物で、宇治の平等院鳳凰堂、岩手の中尊寺金色堂と
並ぶ日本三大阿弥陀堂に数えられています。

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国東観光の一番の目的地富貴寺(ふきじ)に行ってきました。
国宝建造物巡りをしている僕にとっては外せない場所です。

日本三大阿弥陀堂に数えられる富貴寺大堂は静寂の中に鎮座する
素晴らしい建物でした。
富貴寺大堂
ここに来る前に行った両子寺の様な大きな寺ではありませんが、この
阿弥陀堂を見るだけでもう満足です。
それだけの価値がありました。

写真などで紹介される富貴寺は紅葉の中の写真も多いです。
出来れば一度紅葉の富貴寺に行ってみたいなと思いました。

平成19年夏旅
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国宝建造物を巡る
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両子寺    (大分県国東市 観光名所)

大分県国東市の両子寺に行ってきました。

<両子寺>
両子寺
住所:大分県国東市安岐町両子1548


<由緒・現地看板より>
足曳山両子寺は718年、仁聞菩薩の開基とされているが創立年代
については明らかでない。
当寺院は神仏混合全国希有の寺で、六郷満山の正宗分中山十ヶ寺の
一つに数えられ、天台宗延暦寺派に属する。
鎌倉時代には、六郷満山の中心的寺院であったが、南北朝時代に入る
と南北争乱にこの一帯も巻き込まれ、混乱状態が続いたようで
ある。
16世紀には、吉弘氏が寺領支配権を握り、両子寺が支配下にあった。
江戸時代になると吉弘氏の滅亡などにより杵築公の崇拝を受け、その
保護のもと、杵築藩の最高祈願所となり、以後六郷満山の惣禄所と
して六郷満山を支配する事になったのである。

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国東半島めぐり、目当ての場所であった両子寺に行ってきました。
国東では両子寺と富貴寺が僕の中ではメジャーなお寺2つという
認識でした。
両子寺訪問して、やはりその認識は間違って無かったなというのが
印象です。古い建造物こそあまり残っていませんが、石像や山門、
そして寺全体のうっそうとした雰囲気が歴史的な雰囲気を感じさせて
くれます。
真夏に行ったので、青々した雰囲気でしたが、木々の感じからして
紅葉の時期が良いんだろうなと思いました。
しばし静寂の中、心穏やかになる事が出来ました!

平成19年夏旅
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2007年11月20日

泉福寺    (大分県国東市 観光名所)

大分県国東市の泉福寺に行ってきました。

<泉福寺>
泉福寺
住所:大分県国東市国東町横手1913
駐車場あり(無料)
拝観自由

<泉福寺について>
1375年、飯塚城主田原氏能の母、無伝尼公の発願により建立。
明治4年までは九州曹洞宗の総本山として栄え、常住の僧侶も500
人を越えていたことが記録されています。

1581年8月、豊後国主大友宗麟の兵火によって諸堂を焼失しまし
たが、幸い仏殿(大雄殿)、開山堂塔の主要な建物は難を逃れ、
その後、1605年中津城主細川忠興によって再建されました。

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国東半島は古刹が目白押しです。
そんな国東の古刹のひとつ泉福寺に行ってきました。
細川忠興ゆかりのお寺という事と、重要文化財の建物があるという
事で楽しみでした。
行ってみてビックリ!

工事中じゃないですか(>_<)
残念でした。重要文化財の大雄殿はあいにく工事中で、囲いがあり
建物を見ることが出来ませんでした。
参拝だけして帰ることに。また次回のお楽しみですね。

<泉福寺>
泉福寺山門

泉福寺仏殿 工事中
大雄殿は工事中でした・・・。

平成19年夏旅
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2007年11月18日

杵築城    (大分県杵築市 観光名所)

大分県杵築市の杵築城に行ってきました。

<杵築城>
杵築城

住所:大分県杵築市大字杵築城山16−1
駐車場あり(無料)

<杵築城について>
1250年大友親秀の六男親重は豊後の国速見郡武者所として八坂
郷木付荘に封ぜられ、地名の木付を氏とし竹ノ尾の高台に築城した。
木付氏4代頼直のとき城を現在地の城山に移築、1394年竣工。
木付城と名付けた。
1593年、木付氏滅亡後藩主交代相次ぎ、1645年松平英親が
天封されてより明治に至るまで松平氏の治藩下に栄えた。
杵築の地名は1712年徳川6代将軍家宣下賜の朱印状に木付の文字
が杵築と書かれたことによる。

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杵築観光のシメに杵築城に行きました。
杵築城は杵築の街の端、八坂川の河口付近の高台にあるお城です。
天守は昭和45年再建のもので、中は博物館になっています。

もちろん高台という事もあり、天守からの眺めは良好です。
川が天然の堀みたいな形で、堅固な城だな〜ってのが感想です。

<杵築城城門>
城門_杵築

<杵築城からの風景>
杵築城からの風景

杵築城から

平成19年夏旅
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日本の城を巡る
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2007年11月12日

杵築の町並み   (大分県杵築市 古い町並み)

大分県杵築市を散策してきました。

<杵築の町並み>
杵築の町並み
住所:大分県杵築市杵築
駐車場あり(無料・市営観光駐車場あり)

杵築は江戸時代に松平氏3万2千石の城下町として栄えた城下町。
今でも随所に当時を思わせる町並みが残ります。

平成19年8月12日、杵築の町を散策しました。
杵築は坂道に古い町並みが融和して町並みを残しています。
酢屋の坂、勘定場の坂など杵築の町を見る良いスポットが何ヶ所
かあります。

時間にして2時間くらい杵築の街中を歩きました。
屋敷が建ち並ぶとかそういう町並みではないのですが、坂道が非常
に良い感じで、杵築ならではの町並みだな〜と思いました。
夏の炎天下、坂道は少し辛かったですが、町並みの良さに満足!
杵築は良い町ですね(^-^)

平成19年夏旅
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日本の古い町並み
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2007年11月09日

暘谷城    (大分県日出町 城跡)

大分県日出町、暘谷城(日出城)に行ってきました。

<暘谷城>
暘谷城
住所:大分県速見郡日出町2610−1
駐車場あり(無料)

<暘谷城について>
1601年、日出藩初代藩主木下延俊は、入国後直ちに築城にかかり
翌年8月にはおおかたの普請ができ入城した。
城の縄張りは細川忠興が行い、石垣の構築は家臣で築城の名手、穴生
理右衛門が野面積みで築き、木材は鹿鳴越の大木を用いたと言われる。
暘谷城という名前は三代藩主木下俊長が中国古書『淮南子』より引用
し命名したと言われる。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
日出町の暘谷城に行ってきました。
別府から国東半島に向かう途中、偶然通りかかったお城です。
日出町は、ブランド魚である城下カレイが有名な町です。

その日出町の海を望む場所に暘谷城はありました。
公園の様になっていますが、実際城の石垣の上には小学校があり、
あまり観光チックな場所じゃありませんでした。

城跡は石垣が見事に残ります。あいにく天守等の建造物は残ってい
ません。
城からは綺麗な海を見下ろす事が出来て、この風景は良いなと思い
ました。

暘谷城

暘谷城

平成19年夏旅
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2007年10月17日

府内城     (大分県大分市 観光名所)

大分県大分市の府内城に行ってきました。

<府内城>
府内城
住所:大分県大分市荷揚町
駐車場なし(近隣のパーキングを利用)

府内城は1597年福原直高により築城が始められ、2年後には一部
が完成しましたが、直高の領地没収により中断。1601年、竹中重利
が築城工事を再開。石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受ける
などして1602年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。

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大分市の府内城を散歩してきました。

泊まったホテルから数キロの場所だったので、ちょっと行ってみようか
な〜って感じでした。
現在は大分城址公園として整備され、とても綺麗です。
ぐるっと1周、まあ10分ほどでしょうかね。
天守閣こそ残っていませんが、加藤清正が関わったという石垣が
見事でした。

府内城

平成19年夏旅
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日本の城を巡る
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府内城跡(大分城址公園)

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