令和5年12月31日、仁柿巨大稲わらモニュメントを見てきました。
<仁柿巨大稲わらモニュメント>
住所:三重県松阪市飯南町下仁柿樋山口バス停横
駐車場あり(無料)
<稲わらモニュメントについて>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
たまたま通りかかりで発見した稲藁モニュメントを見てきました。
松阪市の仁柿地区の方が作成されているものの様で、ど根性ガエルのピョン吉みた
いな稲わらアートのモニュメントがありました(^-^)
この地区の稲わらモニュメントは2020年にアマビエを造ったところから始まった
様で、現時点ではこのピョン吉みたいなモニュメントになっているそうです。
令和6年5月頃までこのモニュメントで、その後はまた変わるみたいですね。
今後も楽しみな感じです。
無料駐車場も完備されているのもありがたいです。
令和5年〜6年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/501967567.html
2024年02月27日
2024年02月26日
答志島散策 (三重県鳥羽市)
令和6年1月1日、鳥羽市の答志島を散策してきました。
<答志島>
住所:三重県鳥羽市
交通:鳥羽市定期船で和具・答志・桃取の港へ
離島めぐり、今回は三重県鳥羽市の答志島(とうしじま)に行ってきました。
鳥羽から鳥羽市定期船で20分〜30分ほどの島です。
伊勢湾最大の離島で、港が3つあります。
今回は答志島の東側、和具・答志地区を観光しました。西の桃取集落には行って
おりません。
9時発の船に乗り、和具港に約20分ほどで到着しました。
ここから観光開始です。
和具港には多くの漁船が。元旦という事もあり、船には正月飾りが施されていました。
和具からの観光は、港を降りて西に向かうとRAY FIELDという展望スポットが
あります。東に行くと九鬼嘉隆関連の史跡とか。
最初に西に向かう事にします。
今回の大ざっぱな島巡りはこんな感じです。
南国風のビーチ脇を歩いてRAY FIELDに向かいます。
和具港から2キロ超。徒歩で30分以上かかります。
レンタサイクルでも借りると楽なのかもしれませんが、結構坂道を登るので、
普通の自転車では厳しいと思われます。
途中気になったのは、ホテルの廃墟が多い事。これは島全体に見受けられるん
ですが、大型ホテルの廃墟がそのまま放置されていました。
一昔前は、団体客で賑わった頃もあったんでしょうね。廃墟が多く残っている
現状は非常に寂しいもので、栄枯盛衰を感じました。
30分ちょい歩いてレイフィールドに到着。
入り口から数分山道を歩いてレイフィールドの展望台に到着です。
綺麗な展望台が整備されていました。
ここからの鳥羽の海の風景は非常に綺麗でした。
菅島や神島なども見る事が出来ます。
しばし景色を眺め、和具に戻ります。
また30分かけて和具に戻ってきました。和具のビーチ、和具サンシャインビーチ
って言うらしいですが、とても綺麗なビーチです。
夏は海水浴場になるのかな、南国風な雰囲気です。
ここから東に向かいます。
続きを読む
<答志島>
住所:三重県鳥羽市
交通:鳥羽市定期船で和具・答志・桃取の港へ
離島めぐり、今回は三重県鳥羽市の答志島(とうしじま)に行ってきました。
鳥羽から鳥羽市定期船で20分〜30分ほどの島です。
伊勢湾最大の離島で、港が3つあります。
今回は答志島の東側、和具・答志地区を観光しました。西の桃取集落には行って
おりません。
9時発の船に乗り、和具港に約20分ほどで到着しました。
ここから観光開始です。
和具港には多くの漁船が。元旦という事もあり、船には正月飾りが施されていました。
和具からの観光は、港を降りて西に向かうとRAY FIELDという展望スポットが
あります。東に行くと九鬼嘉隆関連の史跡とか。
最初に西に向かう事にします。
今回の大ざっぱな島巡りはこんな感じです。
南国風のビーチ脇を歩いてRAY FIELDに向かいます。
和具港から2キロ超。徒歩で30分以上かかります。
レンタサイクルでも借りると楽なのかもしれませんが、結構坂道を登るので、
普通の自転車では厳しいと思われます。
途中気になったのは、ホテルの廃墟が多い事。これは島全体に見受けられるん
ですが、大型ホテルの廃墟がそのまま放置されていました。
一昔前は、団体客で賑わった頃もあったんでしょうね。廃墟が多く残っている
現状は非常に寂しいもので、栄枯盛衰を感じました。
30分ちょい歩いてレイフィールドに到着。
入り口から数分山道を歩いてレイフィールドの展望台に到着です。
綺麗な展望台が整備されていました。
ここからの鳥羽の海の風景は非常に綺麗でした。
菅島や神島なども見る事が出来ます。
しばし景色を眺め、和具に戻ります。
また30分かけて和具に戻ってきました。和具のビーチ、和具サンシャインビーチ
って言うらしいですが、とても綺麗なビーチです。
夏は海水浴場になるのかな、南国風な雰囲気です。
ここから東に向かいます。
続きを読む
2024年02月21日
正法寺山荘跡 (三重県亀山市)
令和6年1月2日、亀山市にある正法寺山荘跡に行ってきました。
<正法寺山荘跡>
住所:三重県亀山市関町鷲山
駐車場あり(無料)
<正法寺山荘について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
国指定史跡・正法寺山荘跡に行ってきました。
正法寺山荘は、戦国時代に関盛貞によって京都大徳寺の末寺として正法寺が建立され
、織田信長の侵攻に際し、土塁などを設け城としての役割も果たした山荘です。
有名な観光地である東海道関宿から北に数キロ行った場所にあります。
国指定史跡に指定されていて、昭和52年から10年にわたる発掘調査で、4棟の
建物跡、石積の排水溝、井戸、明銭、北宋銭、青磁・白磁皿などが出土しています。
現地では石積の排水溝と思われるものや、土塁などが確認出来ました。
令和5年〜6年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/501967567.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<正法寺山荘跡>
住所:三重県亀山市関町鷲山
駐車場あり(無料)
<正法寺山荘について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
国指定史跡・正法寺山荘跡に行ってきました。
正法寺山荘は、戦国時代に関盛貞によって京都大徳寺の末寺として正法寺が建立され
、織田信長の侵攻に際し、土塁などを設け城としての役割も果たした山荘です。
有名な観光地である東海道関宿から北に数キロ行った場所にあります。
国指定史跡に指定されていて、昭和52年から10年にわたる発掘調査で、4棟の
建物跡、石積の排水溝、井戸、明銭、北宋銭、青磁・白磁皿などが出土しています。
現地では石積の排水溝と思われるものや、土塁などが確認出来ました。
令和5年〜6年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2024年02月15日
専修寺 (三重県津市)
令和5年12月31日、津市にある専修寺に行ってきました。
<専修寺>
住所:三重県津市一身田町2819
駐車場あり(無料)
境内自由
<専修寺について・クリックすると拡大します>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
真宗高田派本山である専修寺に行ってきました。
特に行こうと思って無かったんですが、たまたま近くを通ったので、久しぶりに
行ってみようかなと思い訪問しました。
前回行ったのは平成18年1月8日です。約18年ぶりの訪問になりました。
これ、18年前の写真なんですが、ちょうど御影堂を工事してました。
重要文化財っていう看板が見えます。
今回訪問で、びっくりした点。この御影堂ともうひとつ如来堂が国宝になっていた
事です。平成29年に国宝指定されたそうです。知りませんでした。
素晴らしい建物で、国宝指定も納得といえば納得です。
専修寺は室町時代の創建で、一体は一身田という寺内町になっています。
大阪の富田林や貝塚なんかも寺内町だった場所がありますが、室町時代に一向宗が
寺を中心に堀を作ったりして城の様に防備を固め、守護大名らと戦ったなごりで
すね。専修寺もそんな寺内町として栄えた町の中心にあるお寺です。
ここ数年は映画のロケでも結構使われているそうです。
境内北側の庭園・雲幽園の茶室安楽庵で映画「レジェンド&バタフライ」の撮影
が行われたとの事。
他に映画 「わたしの幸せな結婚」、映画「浅田家!」なども専修寺でロケが行わ
れています。
これから観光地としてもますます有名になりそうな雰囲気です。
<如来堂・国宝>
<通天橋・重要文化財>
<御影堂・国宝>
<唐門>
令和5年〜6年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/501967567.html
国宝建造物を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21220842.html
<専修寺>
住所:三重県津市一身田町2819
駐車場あり(無料)
境内自由
<専修寺について・クリックすると拡大します>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
真宗高田派本山である専修寺に行ってきました。
特に行こうと思って無かったんですが、たまたま近くを通ったので、久しぶりに
行ってみようかなと思い訪問しました。
前回行ったのは平成18年1月8日です。約18年ぶりの訪問になりました。
これ、18年前の写真なんですが、ちょうど御影堂を工事してました。
重要文化財っていう看板が見えます。
今回訪問で、びっくりした点。この御影堂ともうひとつ如来堂が国宝になっていた
事です。平成29年に国宝指定されたそうです。知りませんでした。
素晴らしい建物で、国宝指定も納得といえば納得です。
専修寺は室町時代の創建で、一体は一身田という寺内町になっています。
大阪の富田林や貝塚なんかも寺内町だった場所がありますが、室町時代に一向宗が
寺を中心に堀を作ったりして城の様に防備を固め、守護大名らと戦ったなごりで
すね。専修寺もそんな寺内町として栄えた町の中心にあるお寺です。
ここ数年は映画のロケでも結構使われているそうです。
境内北側の庭園・雲幽園の茶室安楽庵で映画「レジェンド&バタフライ」の撮影
が行われたとの事。
他に映画 「わたしの幸せな結婚」、映画「浅田家!」なども専修寺でロケが行わ
れています。
これから観光地としてもますます有名になりそうな雰囲気です。
<如来堂・国宝>
<通天橋・重要文化財>
<御影堂・国宝>
<唐門>
令和5年〜6年 年末年始の旅
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国宝建造物を巡る
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2022年05月11日
徳永寺 (三重県伊賀市)
伊賀市にある徳永寺に行ってきました。
<徳永寺>
住所:三重県伊賀市柘植町2318
駐車場あり(無料)
境内自由
<徳永寺について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
徳永寺に行ってきました。
名阪国道の伊賀ICからほど近い場所にあります。
本能寺の変の後、堺にいた徳川家康は三河に戻る際、有名な伊賀越えをします。
その際、この徳永寺に立ち寄ったという事。
その恩賞で、近隣の山林や土地を家康から賜ったそうです。
これは伊賀越えに際し、福地氏を中心とする伊賀衆の庇護を受けた事によるものです。
寺の拝観とか出来るのかなと思い訪問したのですが、あいにく出来ず。
外から見るだけで帰還しました。
令和3年〜4年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/485076712.html
大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html
<徳永寺>
住所:三重県伊賀市柘植町2318
駐車場あり(無料)
境内自由
<徳永寺について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
徳永寺に行ってきました。
名阪国道の伊賀ICからほど近い場所にあります。
本能寺の変の後、堺にいた徳川家康は三河に戻る際、有名な伊賀越えをします。
その際、この徳永寺に立ち寄ったという事。
その恩賞で、近隣の山林や土地を家康から賜ったそうです。
これは伊賀越えに際し、福地氏を中心とする伊賀衆の庇護を受けた事によるものです。
寺の拝観とか出来るのかなと思い訪問したのですが、あいにく出来ず。
外から見るだけで帰還しました。
令和3年〜4年 年末年始の旅
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大河ドラマの舞台
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百地丹波城址 (三重県伊賀市)
伊賀市にある百地丹波城址に行ってきました。
<百地丹波城址>
住所:三重県伊賀市喰代字城谷
駐車場あり(無料)
<百地丹波城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊賀市の百地丹波城に行ってきました。
百地丹波は伊賀忍者の一党。その百地氏の居城跡と言われています。
詳細は不明の様ですが、現地は土塁など確認出来ます。
城の隣には清雲寺という百地氏の菩提寺がありました。
<百地丹波城址>
令和3年〜4年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/485076712.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<百地丹波城址>
住所:三重県伊賀市喰代字城谷
駐車場あり(無料)
<百地丹波城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊賀市の百地丹波城に行ってきました。
百地丹波は伊賀忍者の一党。その百地氏の居城跡と言われています。
詳細は不明の様ですが、現地は土塁など確認出来ます。
城の隣には清雲寺という百地氏の菩提寺がありました。
<百地丹波城址>
令和3年〜4年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2021年06月26日
采女城址 (三重県四日市市)
四日市市にある采女城址に行ってきました。
<采女城址>
住所:三重県四日市市釆女町
駐車場あり(無料)
<采女城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
采女城に行ってきました。
采女城は1260年、後藤基秀によって築城され以後、後藤氏の居城として戦国
時代まで続きました。
1568年、織田信長の軍勢の侵攻を受け落城。城主後藤藤勝は自刃。
妻や娘は古井戸に身を投げて亡くなったとの事です。
現在采女城は城跡として遊歩道などが整備され、片道10分かからないくらいの
軽い山登りで本丸跡まで歩いていけます。
堀や曲輪の跡、そして古井戸などが残っていました。
こういう道を登っていきます。
本丸跡です。
奥方や娘が身を投げたという古井戸。。
令和2年〜3年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/481542587.html
日本の城を巡る
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<采女城址>
住所:三重県四日市市釆女町
駐車場あり(無料)
<采女城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
采女城に行ってきました。
采女城は1260年、後藤基秀によって築城され以後、後藤氏の居城として戦国
時代まで続きました。
1568年、織田信長の軍勢の侵攻を受け落城。城主後藤藤勝は自刃。
妻や娘は古井戸に身を投げて亡くなったとの事です。
現在采女城は城跡として遊歩道などが整備され、片道10分かからないくらいの
軽い山登りで本丸跡まで歩いていけます。
堀や曲輪の跡、そして古井戸などが残っていました。
こういう道を登っていきます。
本丸跡です。
奥方や娘が身を投げたという古井戸。。
令和2年〜3年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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藤堂家累代の墓 (三重県津市)
津市にある藤堂家累代の墓を参拝しました。
<藤堂家累代の墓>
住所:三重県津市寿町5
駐車場無し
<藤堂家累代の墓について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
津市にある藤堂家墓所を参拝しました。
津藩は江戸時代、藤堂家が代々治めた土地で、ここには津藩及び支藩の久居藩藩主
の墓所がならんでいます。
藤堂家2代の高次が創建した寒松院にある墓所で、寒松院という名は初代藤堂高虎の
号から来ています。
駐車場が不明です。寺の前に駐車場があるんですが、月極みたいな事が書いてありま
す。そこに停めて良いのかどうかはっきり分かりませんでした。
早朝という事もあり、空いてるとこに一瞬だけ停めて数分だけ見学参拝してきました。
<初代・藤堂高虎の墓>
<2代・藤堂高次の墓(手前)>
令和2年〜3年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/481542587.html
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
<藤堂家累代の墓>
住所:三重県津市寿町5
駐車場無し
<藤堂家累代の墓について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
津市にある藤堂家墓所を参拝しました。
津藩は江戸時代、藤堂家が代々治めた土地で、ここには津藩及び支藩の久居藩藩主
の墓所がならんでいます。
藤堂家2代の高次が創建した寒松院にある墓所で、寒松院という名は初代藤堂高虎の
号から来ています。
駐車場が不明です。寺の前に駐車場があるんですが、月極みたいな事が書いてありま
す。そこに停めて良いのかどうかはっきり分かりませんでした。
早朝という事もあり、空いてるとこに一瞬だけ停めて数分だけ見学参拝してきました。
<初代・藤堂高虎の墓>
<2代・藤堂高次の墓(手前)>
令和2年〜3年 年末年始の旅
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著名人の墓
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2021年06月13日
上野博士と忠犬ハチ公像 (三重県津市)
三重県津市にある忠犬ハチ公の像を見てきました。
<上野博士と忠犬ハチ公像>
住所:三重県津市久居新町
駐車場無し
三重県津市、近鉄久居駅東口にある忠犬ハチ公の像を見てきました。
緑の風公園という公園があり、そこに上野博士と忠犬ハチ公の像があり
ます。
忠犬ハチ公の買主である上野英三郎博士は三重県津市の久居地区の出身。
その縁でここに上野博士とハチ公の像が造られました。
現在、近鉄久居駅の東口をハチ公口に名前を変えようという動きもある
そうです。
令和2年〜3年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/481542587.html
銅像めぐり
http://rover.seesaa.net/article/142026310.html
<上野博士と忠犬ハチ公像>
住所:三重県津市久居新町
駐車場無し
三重県津市、近鉄久居駅東口にある忠犬ハチ公の像を見てきました。
緑の風公園という公園があり、そこに上野博士と忠犬ハチ公の像があり
ます。
忠犬ハチ公の買主である上野英三郎博士は三重県津市の久居地区の出身。
その縁でここに上野博士とハチ公の像が造られました。
現在、近鉄久居駅の東口をハチ公口に名前を変えようという動きもある
そうです。
令和2年〜3年 年末年始の旅
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銅像めぐり
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2020年03月11日
【再】青山高原 (三重県伊賀市)
三重県伊賀市、青山高原に行ってきました。
<青山高原>
住所:三重県伊賀市勝地・北山
駐車場あり(無料)
青山高原は標高約700メートル、伊賀盆地や伊勢湾、遠くは富士まで望めるという
高原です。高原北端の笠取山から青山峠まで、約12Kmのスカイラインがあり、ドライ
ブを楽しむ事が出来ます。
僕は青山高原は何度か来ているんですが、前回の訪問は平成16年の初日の出。
なもんで、16年ぶりの訪問です。
<平成16年訪問時>
http://rover.seesaa.net/article/11003098.html
令和2年1月2日、16年ぶりの訪問で驚いたのが、風力発電の風車が大量に建築さ
れていた事。前来たときはこんなの無かったし。年中風が強いので風力発電に向いて
るんでしょうね。
この日は天気が良く、遠くの山々まで非常に綺麗な景色を見ることが出来ました。
平成14年、16年と2回初日の出を見に来てました。ここは初日の出の名所でも
あって、元日は初日の出を見る客で賑わいます。当時の話ですが、朝の4時位には
駐車場が満車になる位の感じでした。
令和元年〜2年・年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/472938573.html
<青山高原>
住所:三重県伊賀市勝地・北山
駐車場あり(無料)
青山高原は標高約700メートル、伊賀盆地や伊勢湾、遠くは富士まで望めるという
高原です。高原北端の笠取山から青山峠まで、約12Kmのスカイラインがあり、ドライ
ブを楽しむ事が出来ます。
僕は青山高原は何度か来ているんですが、前回の訪問は平成16年の初日の出。
なもんで、16年ぶりの訪問です。
<平成16年訪問時>
http://rover.seesaa.net/article/11003098.html
令和2年1月2日、16年ぶりの訪問で驚いたのが、風力発電の風車が大量に建築さ
れていた事。前来たときはこんなの無かったし。年中風が強いので風力発電に向いて
るんでしょうね。
この日は天気が良く、遠くの山々まで非常に綺麗な景色を見ることが出来ました。
平成14年、16年と2回初日の出を見に来てました。ここは初日の出の名所でも
あって、元日は初日の出を見る客で賑わいます。当時の話ですが、朝の4時位には
駐車場が満車になる位の感じでした。
令和元年〜2年・年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/472938573.html
[ここに地図が表示されます]
2018年01月29日
菰野城址 (三重県菰野町)
三重県菰野町、菰野城址に行ってきました。
<菰野城址>
住所:三重県三重郡菰野町菰野1490
駐車場無し
<菰野城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
菰野城址に行ってきました。
関ヶ原後につくられた城で、城と言うより陣屋(政庁)としての役割の方が
メインだったんでしょう。
江戸時代を通じて菰野藩土方氏の居城として続き、明治維新の後廃城となりました。
菰野城は、菰野小学校の敷地になっている場所がほぼ城跡。
小学校のプールの横に上にある「菰野城址」の碑がありました。
碑の隣にはプール(^^;
城を感じさせるものはほとんどありませんでした。
平成29年〜30年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/455939953.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<菰野城址>
住所:三重県三重郡菰野町菰野1490
駐車場無し
<菰野城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
菰野城址に行ってきました。
関ヶ原後につくられた城で、城と言うより陣屋(政庁)としての役割の方が
メインだったんでしょう。
江戸時代を通じて菰野藩土方氏の居城として続き、明治維新の後廃城となりました。
菰野城は、菰野小学校の敷地になっている場所がほぼ城跡。
小学校のプールの横に上にある「菰野城址」の碑がありました。
碑の隣にはプール(^^;
城を感じさせるものはほとんどありませんでした。
平成29年〜30年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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[ここに地図が表示されます]
2017年02月23日
茂福城址 (三重県四日市市)
三重県四日市市にある茂福城址に行ってきました。
<茂福城址>
住所:三重県四日市市茂福町26
駐車場なし
<茂福城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
茂福(もちぶく)城址に行ってきました。
平成29年元旦の訪問。今年最初の城訪問になりました(^-^)
桓武平氏の平維茂の子孫の平貞冬が、15世紀の1400年前後に越前国
朝倉より茂福へ来て茂福城を築き、朝倉を名乗りこの地を支配しました。
戦国期になり、織田信長の配下滝川一益のもとおびき出され城主は殺され
城兵も激しい抵抗をしたものの攻め滅ぼされたとの事です。
現在は城のあった一角に塚の様なものが残り、そこに茂福城の石碑のみが
残っています。
<茂福城址>
平成28年〜29年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/445480957.html
日本の城を巡る
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<茂福城址>
住所:三重県四日市市茂福町26
駐車場なし
<茂福城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
茂福(もちぶく)城址に行ってきました。
平成29年元旦の訪問。今年最初の城訪問になりました(^-^)
桓武平氏の平維茂の子孫の平貞冬が、15世紀の1400年前後に越前国
朝倉より茂福へ来て茂福城を築き、朝倉を名乗りこの地を支配しました。
戦国期になり、織田信長の配下滝川一益のもとおびき出され城主は殺され
城兵も激しい抵抗をしたものの攻め滅ぼされたとの事です。
現在は城のあった一角に塚の様なものが残り、そこに茂福城の石碑のみが
残っています。
<茂福城址>
平成28年〜29年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2016年11月24日
伊勢亀山城 (三重県亀山市)
三重県亀山市にある伊勢亀山城に行ってきました。
<伊勢亀山城>
住所:三重県亀山市本丸町
駐車場あり(無料)
<伊勢亀山城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊勢亀山城に行ってきました。
古くは鎌倉時代に関実忠によって築城されたもので、その後織田信長に
よって関盛信が追放されるまで関氏の居城でした。
現代に残る亀山城は、1590年に岡本宗憲が築城したと言われています。
江戸時代には城主がめまぐるしく変わりますが、1744年に石川氏が
入城すると以後は石川氏が継ぎ、明治維新を迎えます。
明治6年の廃城令によってほとんどの建造物は壊され、多門櫓、石垣、
土塁の一部のみが残されています。
石垣から察するに相当大きな城であったと思われますが、残念ながら今は一部
しか残っていません(残念です)
多門櫓の脇に小さな木造建築物。
これは明治天皇の行在所だそうです。
三重行幸の折に泊まったとか。
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
http://rover.seesaa.net/article/441115763.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<伊勢亀山城>
住所:三重県亀山市本丸町
駐車場あり(無料)
<伊勢亀山城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊勢亀山城に行ってきました。
古くは鎌倉時代に関実忠によって築城されたもので、その後織田信長に
よって関盛信が追放されるまで関氏の居城でした。
現代に残る亀山城は、1590年に岡本宗憲が築城したと言われています。
江戸時代には城主がめまぐるしく変わりますが、1744年に石川氏が
入城すると以後は石川氏が継ぎ、明治維新を迎えます。
明治6年の廃城令によってほとんどの建造物は壊され、多門櫓、石垣、
土塁の一部のみが残されています。
石垣から察するに相当大きな城であったと思われますが、残念ながら今は一部
しか残っていません(残念です)
多門櫓の脇に小さな木造建築物。
これは明治天皇の行在所だそうです。
三重行幸の折に泊まったとか。
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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日本の城を巡る
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2016年11月23日
伊賀街道・伊賀上野の町並み (三重県伊賀市)
三重県伊賀市、伊賀街道伊賀上野の町並みを散策しました。
<伊賀上野の町並み>
住所:三重県伊賀市上野農人町他
駐車場(市営有料駐車場利用)
伊賀街道は藤堂高虎が伊勢・伊賀の国主として入封した際整備された
街道で、津と伊賀上野を結んでいます。
現在の国道163号線が旧伊賀街道に相当します。
藤堂高虎は街道を整備するとともに、大坂城への備えとして伊賀上野城
の改修を行い上野の城下町を整備します。
伊賀上野の上野農人町付近が伊賀街道の起点になりますが、この付近には
昔ながらの町並みが残っていました。
<伊賀上野の町並み>
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
http://rover.seesaa.net/article/441115763.html
日本の古い町並み
http://rover.seesaa.net/article/21960937.html
<伊賀上野の町並み>
住所:三重県伊賀市上野農人町他
駐車場(市営有料駐車場利用)
伊賀街道は藤堂高虎が伊勢・伊賀の国主として入封した際整備された
街道で、津と伊賀上野を結んでいます。
現在の国道163号線が旧伊賀街道に相当します。
藤堂高虎は街道を整備するとともに、大坂城への備えとして伊賀上野城
の改修を行い上野の城下町を整備します。
伊賀上野の上野農人町付近が伊賀街道の起点になりますが、この付近には
昔ながらの町並みが残っていました。
<伊賀上野の町並み>
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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日本の古い町並み
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上行寺 / 藤堂高虎の墓 (三重県伊賀市)
三重県伊賀市にある上行寺に行ってきました。
<上行寺>
住所:三重県伊賀市上野寺町
駐車場あり
伊賀市にある上行寺に行ってきました。
上行寺は藤堂高虎が紀伊攻めの功績により領地となった紀州粉川に創建
したお寺で、高虎の国替えとともに1611年伊賀上野に移ってきま
した。
藤堂高虎というと津藩のイメージが強いですが、伊賀上野城主も兼ねて
いたそうです。
上行寺は伊賀上野の寺町にあります。高虎が上野の城下町を作った時に
整備した寺町で、今も昔ながらの風情があります。
上行寺は古刹ではありますが、今残っている本堂などは最近建て替えられた
ものでしょうか、比較的新しい建物でした。
本堂の脇に藤堂家累代の墓があります。
クリックすると拡大します。
<藤堂家墓所>
ここには藤堂高虎からはじまり、10代にわたる藤堂家の墓所があります。
一番大きなお墓が藤堂高虎の墓です。
<藤堂高虎の墓>
藤堂高虎は築城の名手としても知られますが、主君を次々と替えて戦国の
世を生き延びた武将としても有名です。
世渡り上手って事ですよね。
余談ですが、幕末の鳥羽伏見の戦いで最初幕府軍についていた津藩藤堂家は
寝返り西軍勝利に貢献する事になります。
その行為は幕府軍から「その行い、藩祖(藤堂高虎)に似たり」と誹られた
そうです。
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
http://rover.seesaa.net/article/441115763.html
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
<上行寺>
住所:三重県伊賀市上野寺町
駐車場あり
伊賀市にある上行寺に行ってきました。
上行寺は藤堂高虎が紀伊攻めの功績により領地となった紀州粉川に創建
したお寺で、高虎の国替えとともに1611年伊賀上野に移ってきま
した。
藤堂高虎というと津藩のイメージが強いですが、伊賀上野城主も兼ねて
いたそうです。
上行寺は伊賀上野の寺町にあります。高虎が上野の城下町を作った時に
整備した寺町で、今も昔ながらの風情があります。
上行寺は古刹ではありますが、今残っている本堂などは最近建て替えられた
ものでしょうか、比較的新しい建物でした。
本堂の脇に藤堂家累代の墓があります。
クリックすると拡大します。
<藤堂家墓所>
ここには藤堂高虎からはじまり、10代にわたる藤堂家の墓所があります。
一番大きなお墓が藤堂高虎の墓です。
<藤堂高虎の墓>
藤堂高虎は築城の名手としても知られますが、主君を次々と替えて戦国の
世を生き延びた武将としても有名です。
世渡り上手って事ですよね。
余談ですが、幕末の鳥羽伏見の戦いで最初幕府軍についていた津藩藤堂家は
寝返り西軍勝利に貢献する事になります。
その行為は幕府軍から「その行い、藩祖(藤堂高虎)に似たり」と誹られた
そうです。
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著名人の墓
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松尾芭蕉故郷塚 / 愛染院 (三重県伊賀市)
伊賀市にある愛染院(芭蕉故郷塚)に行ってきました。
<愛染院>
住所:三重県伊賀市上野農人町354
駐車場あり
<愛染院/芭蕉故郷塚について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
愛染院に行ってきました。伊賀市の観光マップに故郷塚という史跡が
記されていました。
何だろうと思ったら松尾芭蕉のお墓でした。
松尾芭蕉は大坂で亡くなり、遺言により大津市膳所にある義仲寺に
葬られました。以前義仲寺の芭蕉のお墓は参拝しました。
その後門人によって、芭蕉の故郷にもお墓が造られたのがこの故郷塚
です。故郷塚がおかれた愛染院は松尾家の菩提寺だそうです。
<芭蕉故郷塚>
ここにも芭蕉のお墓がある事は初めて知りました。
しかし、遺言で義仲寺に葬られる訳ですが、何故義仲寺なのかも謎ですね。
義仲寺は、木曽義仲を葬ったというお寺です。
芭蕉に関しては本当に謎が多いなと(・o・)
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著名人の墓
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<愛染院>
住所:三重県伊賀市上野農人町354
駐車場あり
<愛染院/芭蕉故郷塚について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
愛染院に行ってきました。伊賀市の観光マップに故郷塚という史跡が
記されていました。
何だろうと思ったら松尾芭蕉のお墓でした。
松尾芭蕉は大坂で亡くなり、遺言により大津市膳所にある義仲寺に
葬られました。以前義仲寺の芭蕉のお墓は参拝しました。
その後門人によって、芭蕉の故郷にもお墓が造られたのがこの故郷塚
です。故郷塚がおかれた愛染院は松尾家の菩提寺だそうです。
<芭蕉故郷塚>
ここにも芭蕉のお墓がある事は初めて知りました。
しかし、遺言で義仲寺に葬られる訳ですが、何故義仲寺なのかも謎ですね。
義仲寺は、木曽義仲を葬ったというお寺です。
芭蕉に関しては本当に謎が多いなと(・o・)
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松尾芭蕉生誕の地 (三重県伊賀市)
伊賀市にある松尾芭蕉生誕の地に行ってきました。
<松尾芭蕉生誕の地>
住所:三重県伊賀市上野赤坂町304
駐車場あり(有料)
<松尾芭蕉生家について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
松尾芭蕉生家に行ってきました。
この家で松尾芭蕉は生まれました。松尾家は平家の末裔とも言われますが、
当時の身分は帯刀は許されていましたが農民の身分だった様です。
この生家で生まれた芭蕉は、29歳で江戸に向かうまでここで生活した
そうです。
松尾芭蕉の出自に関してはよく分かっていない様で、諸国を旅した奥の細道
の旅は幕府の隠密活動ではとも言われています。
伊賀出身ゆえ「忍」だったのかもしれないって事でしょうか。
生家は綺麗に残っています。今回は時間の関係で中には入りませんでした。
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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<松尾芭蕉生誕の地>
住所:三重県伊賀市上野赤坂町304
駐車場あり(有料)
<松尾芭蕉生家について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
松尾芭蕉生家に行ってきました。
この家で松尾芭蕉は生まれました。松尾家は平家の末裔とも言われますが、
当時の身分は帯刀は許されていましたが農民の身分だった様です。
この生家で生まれた芭蕉は、29歳で江戸に向かうまでここで生活した
そうです。
松尾芭蕉の出自に関してはよく分かっていない様で、諸国を旅した奥の細道
の旅は幕府の隠密活動ではとも言われています。
伊賀出身ゆえ「忍」だったのかもしれないって事でしょうか。
生家は綺麗に残っています。今回は時間の関係で中には入りませんでした。
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伊賀上野城 (三重県伊賀市)
三重県伊賀市、伊賀上野城に行ってきました。
<伊賀上野城>
住所:三重県伊賀市上野丸之内106
駐車場あり(有料)
<伊賀上野城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
久しぶりの伊賀上野城訪問です。
もともとこの地には平安時代、平清盛の発願で創建された平楽寺という
大寺院があったそうです。
戦国時代、筒井定次によって最初の伊賀上野城が築城され、その後
1611年に家康の命により藤堂高虎が拡張工事をしました。
この城は大阪方の豊臣への備えとして、いざという時には大軍勢を籠城
させるべく拡張工事が行われました。
築城の名手、藤堂高虎によるものだけあり実戦を意識した堅城です。
日本一と言われる高石垣など、いかにも戦国の城という感じがしました。
<伊賀上野城>
城の中は博物館になってます。
【高石垣】
<伊賀上野城からの景色>
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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日本の城を巡る
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<伊賀上野城>
住所:三重県伊賀市上野丸之内106
駐車場あり(有料)
<伊賀上野城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
久しぶりの伊賀上野城訪問です。
もともとこの地には平安時代、平清盛の発願で創建された平楽寺という
大寺院があったそうです。
戦国時代、筒井定次によって最初の伊賀上野城が築城され、その後
1611年に家康の命により藤堂高虎が拡張工事をしました。
この城は大阪方の豊臣への備えとして、いざという時には大軍勢を籠城
させるべく拡張工事が行われました。
築城の名手、藤堂高虎によるものだけあり実戦を意識した堅城です。
日本一と言われる高石垣など、いかにも戦国の城という感じがしました。
<伊賀上野城>
城の中は博物館になってます。
【高石垣】
<伊賀上野城からの景色>
平成28年夏旅 目指せ名護屋城ツアー
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2016年03月23日
安乗崎灯台 (三重県志摩市)
三重県志摩市の安乗崎灯台(あのりざきとうだい)を訪問しました。
<安乗崎灯台>
住所:三重県志摩市阿児町安乗794−1
駐車場あり(無料)
<安乗崎灯台について>
安乗崎は的矢湾に突き出る岬で、ここには明治6年に建築された安乗崎灯台が
あります。現地は安乗崎園地として整備され、綺麗な芝生の先に見える灯台
が印象的です。
先に、パールロード面白展望台の記事を書きました。そこで対岸に安乗崎が
見えると書いたので、リンクしようと思ったら安乗崎の記事を書いていません
でした。平成27年〜28年年末年始の旅では安乗崎には行ってなくて、ここに
行ったのはもう10年以上前の話です。
てっきり記事を書いてるかと思ったんですが・・、書いてなかったのでタイミ
ングも良いので記事にしてみました。
この安乗崎灯台ははっきり覚えていて10年以上たってる様な気がしないんです
が、それだけ良い場所という事だと思います。
伊勢湾の東に突き出た岬で、ここから見る日の出も良いんじゃないかなと思います。
<安乗崎灯台>
岬・灯台巡り
http://rover.seesaa.net/article/107423997.html
<安乗崎灯台>
住所:三重県志摩市阿児町安乗794−1
駐車場あり(無料)
<安乗崎灯台について>
安乗崎は的矢湾に突き出る岬で、ここには明治6年に建築された安乗崎灯台が
あります。現地は安乗崎園地として整備され、綺麗な芝生の先に見える灯台
が印象的です。
先に、パールロード面白展望台の記事を書きました。そこで対岸に安乗崎が
見えると書いたので、リンクしようと思ったら安乗崎の記事を書いていません
でした。平成27年〜28年年末年始の旅では安乗崎には行ってなくて、ここに
行ったのはもう10年以上前の話です。
てっきり記事を書いてるかと思ったんですが・・、書いてなかったのでタイミ
ングも良いので記事にしてみました。
この安乗崎灯台ははっきり覚えていて10年以上たってる様な気がしないんです
が、それだけ良い場所という事だと思います。
伊勢湾の東に突き出た岬で、ここから見る日の出も良いんじゃないかなと思います。
<安乗崎灯台>
岬・灯台巡り
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パールロード面白展望台 (三重県鳥羽市)
三重県鳥羽市、パールロード面白展望台に行ってきました。
<面白展望台>
住所:三重県鳥羽市国崎相差
駐車場あり
パールロードは鳥羽市と志摩市を結ぶ約23キロの観光道路。以前は有料道路
でしたが、今は無料開放されています。
パールロードには何ヶ所か展望台があり、ここもそのひとつです。
前に書いた鳥羽展望台より南側、パールロードの中間地点付近にあります。
面白展望台からは的矢湾を一望、そして遠くには安乗崎を眺める事が出来ます。
面白展望台の片隅に狸地蔵というお地蔵様がありました。
パールロード周辺には狸が多く生息していて、多い年には50匹の狸が交通事故
で死んでいるそうです。
その狸を供養したお地蔵様との事です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
<面白展望台>
住所:三重県鳥羽市国崎相差
駐車場あり
パールロードは鳥羽市と志摩市を結ぶ約23キロの観光道路。以前は有料道路
でしたが、今は無料開放されています。
パールロードには何ヶ所か展望台があり、ここもそのひとつです。
前に書いた鳥羽展望台より南側、パールロードの中間地点付近にあります。
面白展望台からは的矢湾を一望、そして遠くには安乗崎を眺める事が出来ます。
面白展望台の片隅に狸地蔵というお地蔵様がありました。
パールロード周辺には狸が多く生息していて、多い年には50匹の狸が交通事故
で死んでいるそうです。
その狸を供養したお地蔵様との事です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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2016年03月18日
鳥羽展望台 (三重県鳥羽市)
三重県鳥羽市にある鳥羽展望台に行ってきました。
<鳥羽展望台>
住所:三重県鳥羽市国崎町大岳
駐車場あり
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
英虞湾方面から帰りながらの観光でパールロードを走りました。
パールロードは鳥羽市と志摩市を結ぶ約23キロの観光道路。以前は有料道路
でしたが、今は無料開放されています。
有料の頃一回走ったことがあり、今回走るのは2回目です。
パールロードの鳥羽市寄りに鳥羽展望台があります。
鳥羽展望台は標高179mの箱田山頂上にあり、神島やその向こう側に伊良湖岬などを
眺める事が出来ます。
この日は天気が良かったので、伊良湖岬まではっきり見る事が出来ました(^-^)
<鳥羽展望台からの景色>
山口誓子の歌碑「差し出でて崎々迎ふ 初日の出」
鳥羽展望台から結構近くに見える伊良湖岬。
フェリーを使うと約1時間で行けるんですが、車で伊勢湾を一周するとかなりの
時間がかかります。
僕はここを観光したあと、静岡の藤枝の宿まで走りましたが、伊勢湾フェリーを
使った方が楽だったかなと後悔しました(^^;
伊良湖岬のちょい手前には神島が見えます。
神島は三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった島です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
<鳥羽展望台>
住所:三重県鳥羽市国崎町大岳
駐車場あり
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
英虞湾方面から帰りながらの観光でパールロードを走りました。
パールロードは鳥羽市と志摩市を結ぶ約23キロの観光道路。以前は有料道路
でしたが、今は無料開放されています。
有料の頃一回走ったことがあり、今回走るのは2回目です。
パールロードの鳥羽市寄りに鳥羽展望台があります。
鳥羽展望台は標高179mの箱田山頂上にあり、神島やその向こう側に伊良湖岬などを
眺める事が出来ます。
この日は天気が良かったので、伊良湖岬まではっきり見る事が出来ました(^-^)
<鳥羽展望台からの景色>
山口誓子の歌碑「差し出でて崎々迎ふ 初日の出」
鳥羽展望台から結構近くに見える伊良湖岬。
フェリーを使うと約1時間で行けるんですが、車で伊勢湾を一周するとかなりの
時間がかかります。
僕はここを観光したあと、静岡の藤枝の宿まで走りましたが、伊勢湾フェリーを
使った方が楽だったかなと後悔しました(^^;
伊良湖岬のちょい手前には神島が見えます。
神島は三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった島です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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2016年03月16日
田平子峠刑場跡 (三重県熊野市)
三重県熊野市にある田平子峠刑場跡に行ってきました。
<田平子峠刑場跡>
住所:三重県熊野市紀和町赤木
駐車場なし
赤木城に向かう途中で立ち寄った史跡です。
1585年、豊臣秀長が大和、紀伊及び和泉を領します。
その時、奥熊野地域で地侍らの蜂起が起こっています。
太閤検地等への不満からとも言われるこの蜂起は北山一揆と呼ばれます。
北山一揆に対し、豊臣秀長は断固とした対応を取り、配下の藤堂高虎らに
鎮圧させます。
ここ田平子(たびこら)刑場跡は、北山一揆の関係者300人以上を処刑
した場所という事で、国指定の史跡になっています。
この一揆を鎮圧した藤堂高虎は赤木城を築城しこの地を監視する事になります。
赤木城の築城はこの一揆に起因するもので、赤木城と田平子刑場跡は歴史
的繋がりがあるものですので、一緒に訪問すると良いかと思います。
すぐ近くですし。
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
<田平子峠刑場跡>
住所:三重県熊野市紀和町赤木
駐車場なし
赤木城に向かう途中で立ち寄った史跡です。
1585年、豊臣秀長が大和、紀伊及び和泉を領します。
その時、奥熊野地域で地侍らの蜂起が起こっています。
太閤検地等への不満からとも言われるこの蜂起は北山一揆と呼ばれます。
北山一揆に対し、豊臣秀長は断固とした対応を取り、配下の藤堂高虎らに
鎮圧させます。
ここ田平子(たびこら)刑場跡は、北山一揆の関係者300人以上を処刑
した場所という事で、国指定の史跡になっています。
この一揆を鎮圧した藤堂高虎は赤木城を築城しこの地を監視する事になります。
赤木城の築城はこの一揆に起因するもので、赤木城と田平子刑場跡は歴史
的繋がりがあるものですので、一緒に訪問すると良いかと思います。
すぐ近くですし。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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2016年03月10日
越賀城趾 (三重県志摩市)
三重県志摩市にある越賀城趾に行ってきました。
<越賀城趾>
住所:三重県志摩市志摩町越賀字城山
駐車場なし(近隣に停める場所あり)
越賀城は築城年不詳のお城です。
藤原氏の末裔と言われる越賀氏の居城。海に突き出た岬に築城されています。
現在城跡は個人所有なのか、上に登ると畑の様なものがありました。
城の痕跡はほぼありません。
<越賀城趾>
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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<越賀城趾>
住所:三重県志摩市志摩町越賀字城山
駐車場なし(近隣に停める場所あり)
越賀城は築城年不詳のお城です。
藤原氏の末裔と言われる越賀氏の居城。海に突き出た岬に築城されています。
現在城跡は個人所有なのか、上に登ると畑の様なものがありました。
城の痕跡はほぼありません。
<越賀城趾>
平成27年〜28年 年末年始の旅
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2016年03月09日
登茂山展墓台 (三重県志摩市)
三重県志摩市にある登茂山展望台(慕情ヶ丘展望台)に行ってきました。
<登茂山展望台>
住所:三重県志摩市大王町登茂山
駐車場あり(無料)
登茂山展望台は英虞湾東側にある展望台です。
英虞湾は多くの島がある多島海。この穏やかな海では真珠貝や牡蠣の養殖が
行われています。
登茂山展望台からは英虞湾を一望出来、特に夕陽の景色の良さが有名です。
この日は昼間の訪問、昼間も眺望は良好です(^-^)
今度は夕陽の時間に訪問してみたいです。
クリックすると拡大します。
こちらは14年前に訪問したときに撮影した写真です(^-^)
平成27年〜28年 年末年始の旅
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<登茂山展望台>
住所:三重県志摩市大王町登茂山
駐車場あり(無料)
登茂山展望台は英虞湾東側にある展望台です。
英虞湾は多くの島がある多島海。この穏やかな海では真珠貝や牡蠣の養殖が
行われています。
登茂山展望台からは英虞湾を一望出来、特に夕陽の景色の良さが有名です。
この日は昼間の訪問、昼間も眺望は良好です(^-^)
今度は夕陽の時間に訪問してみたいです。
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こちらは14年前に訪問したときに撮影した写真です(^-^)
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2016年03月04日
一之瀬城 (三重県度会町)
三重県度会町にある一之瀬城跡に行ってきました。
<一之瀬城趾>
住所:三重県度会郡度会町脇出
駐車場あり(無料)
<一之瀬城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一之瀬城趾に行ってきました。
一之瀬城は豪族愛洲氏の居城です。南北朝期には後醍醐天皇の皇子・宗良親王を
この城に迎えたそうです。
戦国期にどうなったかとか詳しい事が分かりません。
現在は一之瀬神社という神社になっています。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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<一之瀬城趾>
住所:三重県度会郡度会町脇出
駐車場あり(無料)
<一之瀬城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一之瀬城趾に行ってきました。
一之瀬城は豪族愛洲氏の居城です。南北朝期には後醍醐天皇の皇子・宗良親王を
この城に迎えたそうです。
戦国期にどうなったかとか詳しい事が分かりません。
現在は一之瀬神社という神社になっています。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2016年03月02日
紀伊長島・魚まち (三重県紀北町)
三重県紀北町、紀伊長島の魚まちを散策してきました。
<魚まち>
住所:三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区
駐車場あり(無料:町営駐車場)
<魚まちについて・現地解説>
東紀州地域の玄関口に位置し、県内有数の漁獲量を誇り、昔から漁業や海産商、また
風待ち港として栄えてきました。
魚市場や江の浦の周辺は今も昔ながらの漁師町の風情を色濃く残しています。
そして、海や川にまつわる伝説や民話が大切に守り継がれ、暮らしに息づいています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
紀伊長島の魚まちを散策してきました。
紀伊長島は、三重県紀北町にあり熊野街道の宿場として、また漁師の町として
栄えてきました。
紀伊長島には道の駅があり、僕はよくここで休憩していたんですが、紀伊長島の町
に立ち寄ったことは一度もありませんでした。毎度道の駅に寄るだけで通過する
町でした。
ここに昔ながらの町並みがあるというので、今回はゆっくり町中を歩いて見る事に
しました。
確かに行ってみると昔ながらの町並みが残っていました。木造の古い建物、大正時代
位の建築ですかね、結構残ってます。
<魚まち>
紀伊長島ではいろいろな魚が水揚げされますが、特徴的なものとしてはマンボウ
があげられるのではないでしょうか。
道の駅ではマンボウの串焼きや、冷凍マンボウなども売られています(^-^)
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
日本の古い町並み
http://rover.seesaa.net/article/21960937.html
<魚まち>
住所:三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区
駐車場あり(無料:町営駐車場)
<魚まちについて・現地解説>
東紀州地域の玄関口に位置し、県内有数の漁獲量を誇り、昔から漁業や海産商、また
風待ち港として栄えてきました。
魚市場や江の浦の周辺は今も昔ながらの漁師町の風情を色濃く残しています。
そして、海や川にまつわる伝説や民話が大切に守り継がれ、暮らしに息づいています。
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紀伊長島の魚まちを散策してきました。
紀伊長島は、三重県紀北町にあり熊野街道の宿場として、また漁師の町として
栄えてきました。
紀伊長島には道の駅があり、僕はよくここで休憩していたんですが、紀伊長島の町
に立ち寄ったことは一度もありませんでした。毎度道の駅に寄るだけで通過する
町でした。
ここに昔ながらの町並みがあるというので、今回はゆっくり町中を歩いて見る事に
しました。
確かに行ってみると昔ながらの町並みが残っていました。木造の古い建物、大正時代
位の建築ですかね、結構残ってます。
<魚まち>
紀伊長島ではいろいろな魚が水揚げされますが、特徴的なものとしてはマンボウ
があげられるのではないでしょうか。
道の駅ではマンボウの串焼きや、冷凍マンボウなども売られています(^-^)
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の古い町並み
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2016年03月01日
長島城趾 (三重県紀北町)
三重県紀北町にある長島城趾(長楽寺)に行ってきました。
<長島城趾>
住所:三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区長島969
駐車場あり(町営駐車場利用)
<長島城について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
長島城趾に行ってきました。
長島城というと、同じ三重県にある一向一揆の拠点だった長島城の方が有名ですが、
もうひとつ長島城というお城があった様です。
同じ三重県とはいえ、こちらは旧国では紀伊国、一向一揆の拠点の方は伊勢国に
なるので昔だと違う国なんですね。
こちらの長島城は北畠氏の家臣加藤氏による築城。
戦国期に堀内氏との戦に敗れ落城、当主が自刃という事になった様です。
長島城は現在遺構はほぼ見られず、長楽寺前に長島城趾の解説碑のみあります。
長楽寺裏の山が長島城趾です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<長島城趾>
住所:三重県北牟婁郡紀北町紀伊長島区長島969
駐車場あり(町営駐車場利用)
<長島城について>
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長島城趾に行ってきました。
長島城というと、同じ三重県にある一向一揆の拠点だった長島城の方が有名ですが、
もうひとつ長島城というお城があった様です。
同じ三重県とはいえ、こちらは旧国では紀伊国、一向一揆の拠点の方は伊勢国に
なるので昔だと違う国なんですね。
こちらの長島城は北畠氏の家臣加藤氏による築城。
戦国期に堀内氏との戦に敗れ落城、当主が自刃という事になった様です。
長島城は現在遺構はほぼ見られず、長楽寺前に長島城趾の解説碑のみあります。
長楽寺裏の山が長島城趾です。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2016年02月21日
赤木城 (三重県熊野市)
三重県熊野市にある赤木城に行ってきました。
<赤木城>
住所:三重県熊野市 紀和町赤木122
駐車場あり(無料)
赤木城は1588年頃に北山一揆を取り締まるために、豊臣秀長の家臣であった
藤堂高虎が築城したものです。
城跡は天正期の山城の遺構を良く残しており、国指定の史跡となっています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
今回の旅の目的地のひとつだった赤木城跡に行ってきました。
赤木城は築城の名手と言われた藤堂高虎が築城したお城で、今も当時の石積が
残り、城の面影を感じる事が出来ます。
近年天空の城として兵庫県の竹田城が注目されています。竹田城は確かに凄い
お城ですが、ここ赤木城も竹田城の様に良くその遺構を残し、山の地形をうまく
利用した山城として、こちらももっと注目されても良いんじゃないかなと思います。
元旦の午前中の訪問だったので、観光客は僕を含め2人しかいませんでした(^^;
<赤木城跡>
平成27年〜28年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/432024561.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
写真が多いので続きをどうぞ
続きを読む
<赤木城>
住所:三重県熊野市 紀和町赤木122
駐車場あり(無料)
赤木城は1588年頃に北山一揆を取り締まるために、豊臣秀長の家臣であった
藤堂高虎が築城したものです。
城跡は天正期の山城の遺構を良く残しており、国指定の史跡となっています。
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今回の旅の目的地のひとつだった赤木城跡に行ってきました。
赤木城は築城の名手と言われた藤堂高虎が築城したお城で、今も当時の石積が
残り、城の面影を感じる事が出来ます。
近年天空の城として兵庫県の竹田城が注目されています。竹田城は確かに凄い
お城ですが、ここ赤木城も竹田城の様に良くその遺構を残し、山の地形をうまく
利用した山城として、こちらももっと注目されても良いんじゃないかなと思います。
元旦の午前中の訪問だったので、観光客は僕を含め2人しかいませんでした(^^;
<赤木城跡>
平成27年〜28年 年末年始の旅
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2016年02月14日
丸山千枚田 (三重県熊野市)
三重県熊野市にある丸山千枚田を見に行ってきました。
<丸山千枚田>
住所:三重県熊野市紀和町丸山
駐車場あり(無料)
熊野市丸山地区にある丸山千枚田に行ってきました。
見てびっくり、壮大な棚田でした。
丸山地区は熊野市街から山の中に入ったエリア。平坦な場所はほとんどありません。
そんな中にこれだけの田んぼを作った先人は本当にすごいなと思います。
丸山千枚田の歴史は詳しく分かっていない様ですが、戦国時代末期、豊臣秀吉が
行った太閤検地において、その存在が確認されている様です。
千枚田という名前ですが、実施には1340枚の田んぼがあるとの事です。
すごいですね(^-^)
平成27年〜28年 年末年始の旅
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<丸山千枚田>
住所:三重県熊野市紀和町丸山
駐車場あり(無料)
熊野市丸山地区にある丸山千枚田に行ってきました。
見てびっくり、壮大な棚田でした。
丸山地区は熊野市街から山の中に入ったエリア。平坦な場所はほとんどありません。
そんな中にこれだけの田んぼを作った先人は本当にすごいなと思います。
丸山千枚田の歴史は詳しく分かっていない様ですが、戦国時代末期、豊臣秀吉が
行った太閤検地において、その存在が確認されている様です。
千枚田という名前ですが、実施には1340枚の田んぼがあるとの事です。
すごいですね(^-^)
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2016年01月10日
浜田城趾 / 鵜森神社 (三重県四日市市)
三重県四日市市にある浜田城趾(鵜森神社)に行ってきました。
<浜田城趾 / 鵜森神社>
住所:三重県四日市市鵜の森1丁目13−6
駐車場なし
<浜田城趾について>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
近鉄四日市駅の近くに城跡がある事を知り行ってみました。
浜田城というお城です。今は鵜森神社とそれに隣接して公園があります。
築城したのは田原氏で室町時代中期のものです。
田原氏は、田原藤太秀郷の子孫との事。田原藤太秀郷とは、平将門の乱を鎮圧した
藤原秀郷の事です。
城跡という事ですが、かつてここが城であったという事をうかがい知る事は出来
ません。神社の境内に浜田城趾の石碑があり、それで知ることが出来る程度です。
<浜田城趾の碑>
<鵜森神社>
近鉄四日市駅付近は何度も来ていますが、ここに城跡があるという事は全然
知りませんでした。意外なところに意外なものがあるなと、改めて思いました。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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<浜田城趾 / 鵜森神社>
住所:三重県四日市市鵜の森1丁目13−6
駐車場なし
<浜田城趾について>
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近鉄四日市駅の近くに城跡がある事を知り行ってみました。
浜田城というお城です。今は鵜森神社とそれに隣接して公園があります。
築城したのは田原氏で室町時代中期のものです。
田原氏は、田原藤太秀郷の子孫との事。田原藤太秀郷とは、平将門の乱を鎮圧した
藤原秀郷の事です。
城跡という事ですが、かつてここが城であったという事をうかがい知る事は出来
ません。神社の境内に浜田城趾の石碑があり、それで知ることが出来る程度です。
<浜田城趾の碑>
<鵜森神社>
近鉄四日市駅付近は何度も来ていますが、ここに城跡があるという事は全然
知りませんでした。意外なところに意外なものがあるなと、改めて思いました。
平成27年〜28年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2015年04月12日
大河内城 (三重県松阪市)
三重県松阪市にある大河内城に行ってきました。
<大河内城>
住所:三重県松阪市大河内町城山
駐車場あり(無料)
<現地解説>
標高110メートル余りの丘陵突端部一帯、300メートル四方の範囲内に
築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷
が巡って自然に要害の地を形成している。
城の縄張りは本丸を中心に北を大手口、南を搦め手口とし、西に西の丸、
東に二の丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切や台状地が残る。
大河内城は1415年、伊勢国司北畠満雅により築城され、弟顕雅が入城して、
その子孫は代々大河内御所を称した。1569年8月、本城をめぐって
北畠具教と織田信長が対峙し、北畠氏は50日にもおよぶ籠城戦に耐え、
やがて和睦が成立している。
この一大攻防戦の結果、城は難攻不落の堅城と賞賛されたが、1575年には
信長の次男北畠信雄により廃城となる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
織田信長と北畠具教の戦い「大河内合戦」の地大河内城に行ってきました。
場所が分かりづらいですが、国道166号線沿いの大河内地区市民センターを目指して
行けばたどり着けます。
そこにある駐車場から歩いて数分、そこからちょっとした山登りです。
10分もかかりませんが、山城の山道を歩いて行きます。
こちら本丸跡です。
本丸跡には大河内神社が鎮座しています。
また信長との「大河内合戦」400周年を記念した碑も建っています。
ここは信長の包囲にも落城しなかった名城なんですね。
いまは長閑な雰囲気で、とてもそんな攻防戦があった事を感じさせるものは残って
いませんでした。
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<大河内城>
住所:三重県松阪市大河内町城山
駐車場あり(無料)
<現地解説>
標高110メートル余りの丘陵突端部一帯、300メートル四方の範囲内に
築造され、東裾には阪内川、北裾には矢津川が流れ、南裾と西裾には深い谷
が巡って自然に要害の地を形成している。
城の縄張りは本丸を中心に北を大手口、南を搦め手口とし、西に西の丸、
東に二の丸・御納戸・馬場などを配し、随所に堀切や台状地が残る。
大河内城は1415年、伊勢国司北畠満雅により築城され、弟顕雅が入城して、
その子孫は代々大河内御所を称した。1569年8月、本城をめぐって
北畠具教と織田信長が対峙し、北畠氏は50日にもおよぶ籠城戦に耐え、
やがて和睦が成立している。
この一大攻防戦の結果、城は難攻不落の堅城と賞賛されたが、1575年には
信長の次男北畠信雄により廃城となる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
織田信長と北畠具教の戦い「大河内合戦」の地大河内城に行ってきました。
場所が分かりづらいですが、国道166号線沿いの大河内地区市民センターを目指して
行けばたどり着けます。
そこにある駐車場から歩いて数分、そこからちょっとした山登りです。
10分もかかりませんが、山城の山道を歩いて行きます。
こちら本丸跡です。
本丸跡には大河内神社が鎮座しています。
また信長との「大河内合戦」400周年を記念した碑も建っています。
ここは信長の包囲にも落城しなかった名城なんですね。
いまは長閑な雰囲気で、とてもそんな攻防戦があった事を感じさせるものは残って
いませんでした。
平成26年・27年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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2015年04月08日
本居宣長奥墓 (三重県松阪市)
三重県松阪市にある本居宣長奥墓(おくつき)を参拝してきました。
<本居宣長奥墓>
住所:三重県松阪市山室町1374
駐車場あり(無料)
<現地解説>
この奥墓は宣長翁を埋葬した墓であり、翁には奥墓のほかに本居家の
菩提寺である新町の樹敬寺にも詣墓がある。
翁は晩年「遺言書」をしたため、俗塵を離れた山気清い山室の里の
妙楽寺の山内に墓所を定めた。
その翌年1801年9月、病にかかり72歳でこの世を去った。
そして止まなかった山桜のもとに眠っている。
なお墓石の字は翁の直筆である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本居宣長は江戸時代中期、松阪出身の国学者・医師。
国学の四大人の一人として数えられる人物です。
松阪市のはずれの方に本居宣長の奥墓ろよばれる墓があるという事で行ってみまし
た。
妙楽寺というお寺まで狭い道ですが車で行けます。
そこからは山道を10分ほど歩くことになります。
一応整備されていますが、結構疲れます。
ひーひー言いながらやっと到着。
<本居宣長奥墓>
墓碑の字自体、宣長自身の筆という事です。
山奥にひっそりと眠ってるんですね。
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
<本居宣長奥墓>
住所:三重県松阪市山室町1374
駐車場あり(無料)
<現地解説>
この奥墓は宣長翁を埋葬した墓であり、翁には奥墓のほかに本居家の
菩提寺である新町の樹敬寺にも詣墓がある。
翁は晩年「遺言書」をしたため、俗塵を離れた山気清い山室の里の
妙楽寺の山内に墓所を定めた。
その翌年1801年9月、病にかかり72歳でこの世を去った。
そして止まなかった山桜のもとに眠っている。
なお墓石の字は翁の直筆である。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本居宣長は江戸時代中期、松阪出身の国学者・医師。
国学の四大人の一人として数えられる人物です。
松阪市のはずれの方に本居宣長の奥墓ろよばれる墓があるという事で行ってみまし
た。
妙楽寺というお寺まで狭い道ですが車で行けます。
そこからは山道を10分ほど歩くことになります。
一応整備されていますが、結構疲れます。
ひーひー言いながらやっと到着。
<本居宣長奥墓>
墓碑の字自体、宣長自身の筆という事です。
山奥にひっそりと眠ってるんですね。
著名人の墓
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平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
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久昌寺 / 平知盛終焉の地 (三重県伊勢市)
三重県伊勢市にある久昌寺に行ってきました。
<久昌寺>
住所:三重県伊勢市矢持町菖蒲127
駐車場あり(無料)
境内自由
<現地解説>
寺伝によると、当寺は1190年、平知盛の草創としています。
知盛は壇ノ浦で入水することなく、平家の再興を期し当地に隠れ住んだとされて
います。
墓地に御堂を建て知盛の菩提を弔ったのがこの場所で、境内に供養塚があります。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県伊勢市の奥地に平知盛の墓があるというので行ってみました。
平知盛は壇ノ浦で死んだのでは?
どういう事なんでしょう。久昌寺に向かいます。
久昌寺に到着。確かに「平知盛卿終焉の地」って書いてある。
どうやらここも日本に数ある平家落人の里で、知盛も生き残ったという伝説の
地なんですね。真田幸村や源義経の生きていた伝説と一緒です。
境内にある平知盛供養塚です。
そういえば三重県の津市には平維盛の墓もあったなと。
<平維盛の墓>
http://rover.seesaa.net/article/124261975.html
伊勢は平氏ゆかりの地だけに、落人伝説もいろいろあるんでしょうね。
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
<久昌寺>
住所:三重県伊勢市矢持町菖蒲127
駐車場あり(無料)
境内自由
<現地解説>
寺伝によると、当寺は1190年、平知盛の草創としています。
知盛は壇ノ浦で入水することなく、平家の再興を期し当地に隠れ住んだとされて
います。
墓地に御堂を建て知盛の菩提を弔ったのがこの場所で、境内に供養塚があります。
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三重県伊勢市の奥地に平知盛の墓があるというので行ってみました。
平知盛は壇ノ浦で死んだのでは?
どういう事なんでしょう。久昌寺に向かいます。
久昌寺に到着。確かに「平知盛卿終焉の地」って書いてある。
どうやらここも日本に数ある平家落人の里で、知盛も生き残ったという伝説の
地なんですね。真田幸村や源義経の生きていた伝説と一緒です。
境内にある平知盛供養塚です。
そういえば三重県の津市には平維盛の墓もあったなと。
<平維盛の墓>
http://rover.seesaa.net/article/124261975.html
伊勢は平氏ゆかりの地だけに、落人伝説もいろいろあるんでしょうね。
著名人の墓
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大河ドラマの舞台
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平成26年・27年 年末年始の旅
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伊雑宮 (三重県志摩市)
三重県志摩市にある伊雑宮(いざわのみや)に行ってきました。
<伊雑宮>
住所:三重県志摩市磯部町上之郷374
駐車場あり(無料)
<現地解説>
伊雑宮は皇大神社(内宮)の別宮であり、御祭神は天照大神です。
古くからこの地にまつられ「伊雑宮」とか「磯部さん」などと呼ばれて
おり、「大神の遙宮」と記され「志摩国一之宮」とも称されています。
社名の伊雑はこの地域の古代の地名であり、昔も今も全国各地から大勢
の参拝者が訪れています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県志摩市にある伊雑宮に行ってきました。
横山展望台で初日の出を見たあと、伊雑宮に初詣に行きました。
伊雑宮は伊射波神社と並んで志摩国一之宮の神社です。
伊勢の内宮の別院という事で、由緒ある神社。
元旦と言うこともあり初詣客で賑わっていました。
本殿は式年遷宮で建て替えられたばかりのようで、新築でピカピカ状態。
隣には古い社が残っていました。
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
一之宮を巡る
http://rover.seesaa.net/article/26834634.html
<伊雑宮>
住所:三重県志摩市磯部町上之郷374
駐車場あり(無料)
<現地解説>
伊雑宮は皇大神社(内宮)の別宮であり、御祭神は天照大神です。
古くからこの地にまつられ「伊雑宮」とか「磯部さん」などと呼ばれて
おり、「大神の遙宮」と記され「志摩国一之宮」とも称されています。
社名の伊雑はこの地域の古代の地名であり、昔も今も全国各地から大勢
の参拝者が訪れています。
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三重県志摩市にある伊雑宮に行ってきました。
横山展望台で初日の出を見たあと、伊雑宮に初詣に行きました。
伊雑宮は伊射波神社と並んで志摩国一之宮の神社です。
伊勢の内宮の別院という事で、由緒ある神社。
元旦と言うこともあり初詣客で賑わっていました。
本殿は式年遷宮で建て替えられたばかりのようで、新築でピカピカ状態。
隣には古い社が残っていました。
平成26年・27年 年末年始の旅
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一之宮を巡る
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2015年04月06日
五ヶ所城 (三重県南伊勢町)
三重県南伊勢町にある五ヶ所城趾に行ってきました。
<五ヶ所城>
住所:三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦2366
駐車場なし
<現地解説>
五ヶ所城は南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城とも言われ、土地の者は
愛洲さんと読んで大切にしてきました。
愛洲氏は古くからここに城を構え、南北朝の頃には国司北畠氏と共に伊勢地方
に勢力をはり、熊野水軍と結んで田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。
功により伊勢の守護職となり所領を受けて神宮のうしろだてとなりました。
一族はながくこの地を本拠地として威を振るいましたが1576年北畠氏の
軍に攻められ滅亡しました。
現在城趾と丘の南面の居館跡や塔頭が残っております。
中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので昭和13年、県の史跡の指定を
受けました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県南伊勢町の五ヶ所城跡に行ってきました。
南朝方の武将であった愛洲氏の居城です。今はほぼ遺構は残ってなく、竹藪の中に
五ヶ所城跡の碑があります。
その愛洲氏の中で有名なのが愛洲移香斎(1452〜1528)です。
移香斎はこの地に生まれました。
移香斎は剣の奥義を究め、愛洲影流という流派をひらきました。
愛洲影流は上泉信綱により新陰流となり柳生石舟斎の柳生心影流をはじめ
二百余流の源流となり移香斎は剣祖としてあがめられたそうです。
<移香斎生誕の地碑>
平成26年・27年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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<五ヶ所城>
住所:三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦2366
駐車場なし
<現地解説>
五ヶ所城は南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城とも言われ、土地の者は
愛洲さんと読んで大切にしてきました。
愛洲氏は古くからここに城を構え、南北朝の頃には国司北畠氏と共に伊勢地方
に勢力をはり、熊野水軍と結んで田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。
功により伊勢の守護職となり所領を受けて神宮のうしろだてとなりました。
一族はながくこの地を本拠地として威を振るいましたが1576年北畠氏の
軍に攻められ滅亡しました。
現在城趾と丘の南面の居館跡や塔頭が残っております。
中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので昭和13年、県の史跡の指定を
受けました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県南伊勢町の五ヶ所城跡に行ってきました。
南朝方の武将であった愛洲氏の居城です。今はほぼ遺構は残ってなく、竹藪の中に
五ヶ所城跡の碑があります。
その愛洲氏の中で有名なのが愛洲移香斎(1452〜1528)です。
移香斎はこの地に生まれました。
移香斎は剣の奥義を究め、愛洲影流という流派をひらきました。
愛洲影流は上泉信綱により新陰流となり柳生石舟斎の柳生心影流をはじめ
二百余流の源流となり移香斎は剣祖としてあがめられたそうです。
<移香斎生誕の地碑>
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
[ここに地図が表示されます]
2015年04月05日
花岡城趾 (三重県南伊勢町)
三重県南伊勢町にある花岡城趾に行ってきました。
<花岡城趾>
住所:三重県度会郡南伊勢町迫間浦417
駐車場あり(無料)
南伊勢町にある花岡城趾です。
特に調べて行った訳ではありません。たまたま城趾の碑を見つけた
ので立ち寄ってみました。
この記事を書くべきかどうか悩みました。現地に解説板もなく、調べた
んですが、花岡城についてよく分からなかったからです。
どうも詳しいことは分かっていない様ですが、南北朝時代において南朝方
の愛洲氏の砦跡という事の様です。
現在は海雲寺というお寺になっています。
現地からは海を見下ろし、砦としての立地は良い場所かなと思います。
平成26年・27年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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<花岡城趾>
住所:三重県度会郡南伊勢町迫間浦417
駐車場あり(無料)
南伊勢町にある花岡城趾です。
特に調べて行った訳ではありません。たまたま城趾の碑を見つけた
ので立ち寄ってみました。
この記事を書くべきかどうか悩みました。現地に解説板もなく、調べた
んですが、花岡城についてよく分からなかったからです。
どうも詳しいことは分かっていない様ですが、南北朝時代において南朝方
の愛洲氏の砦跡という事の様です。
現在は海雲寺というお寺になっています。
現地からは海を見下ろし、砦としての立地は良い場所かなと思います。
平成26年・27年 年末年始の旅
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日本の城を巡る
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田丸城 (三重県玉城町)
三重県玉城町にある田丸城に行ってきました。
<田丸城>
住所:三重県玉城町田丸字城郭114-1
駐車場あり(無料)
<現地解説>
田丸城は、南北朝動乱期の1336年、後醍醐天皇を吉野に迎えようと
伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を
築いて南朝方の拠点のしたことが始まりとされる。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の
面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の
舞台となった。
室町時代には伊勢国司となり多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配
の拠点となっていた。1575年織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が
玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け本丸には三層の天守閣を
建て田丸城の誕生となった。1580年にはこの天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は
代々城代をつとめた。城は明治2年に廃城となり明治4年に取り壊された。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
南北朝時代からのお城、田丸城に行ってきました。
戦国時代までは北畠氏の居城、江戸時代は紀州徳川家の居城となります。
今残ってるのは石垣くらいでしょうか。しかしながらその立派な石垣からは
かつてこの城の大きさや、防衛拠点としての重要性を感じる事が出来ます。
立派な石垣です。
虎口から入ると本丸跡につきます。
天守閣らしきものが見えます。
お、何だこの城は(笑)
中に入ってみましょう(^-^)
単管パイプで出来てるじゃないですか(^^;
単管にシートをはっただけという構造です。
恐れ入りました。この日は風が強くて、シートがバタバタと凄い音を
たてておりました。
ここからは遠くまで見渡すことが出来ます。
良い天気でしょ。余談ですが、この数時間後に猛吹雪に遭おうとは、想像も
つかなかったです。
平成26年・27年 年末年始の旅
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<田丸城>
住所:三重県玉城町田丸字城郭114-1
駐車場あり(無料)
<現地解説>
田丸城は、南北朝動乱期の1336年、後醍醐天皇を吉野に迎えようと
伊勢に下った北畠親房が、愛洲氏や度会氏などの援助を得てこの玉丸山に城を
築いて南朝方の拠点のしたことが始まりとされる。
南朝方の拠点である吉野から伊勢神宮の外港大湊に通じる道は、軍事・経済の
面からも吉野朝廷にとっては最重要路線であり、玉丸城は北朝・南朝の攻防の
舞台となった。
室町時代には伊勢国司となり多気に館を構えた北畠氏の支城として伊勢志摩支配
の拠点となっていた。1575年織田信長の次男で北畠氏を継いだ織田信雄が
玉丸城に大改造を加え、本丸・二の丸・北の丸を設け本丸には三層の天守閣を
建て田丸城の誕生となった。1580年にはこの天守閣は炎上した。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣の家老久野宗成が田丸城主となり、久野家は
代々城代をつとめた。城は明治2年に廃城となり明治4年に取り壊された。
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南北朝時代からのお城、田丸城に行ってきました。
戦国時代までは北畠氏の居城、江戸時代は紀州徳川家の居城となります。
今残ってるのは石垣くらいでしょうか。しかしながらその立派な石垣からは
かつてこの城の大きさや、防衛拠点としての重要性を感じる事が出来ます。
立派な石垣です。
虎口から入ると本丸跡につきます。
天守閣らしきものが見えます。
お、何だこの城は(笑)
中に入ってみましょう(^-^)
単管パイプで出来てるじゃないですか(^^;
単管にシートをはっただけという構造です。
恐れ入りました。この日は風が強くて、シートがバタバタと凄い音を
たてておりました。
ここからは遠くまで見渡すことが出来ます。
良い天気でしょ。余談ですが、この数時間後に猛吹雪に遭おうとは、想像も
つかなかったです。
平成26年・27年 年末年始の旅
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横山展望台 (三重県志摩市)
三重県志摩市の横山展望台に行ってきました。
<横山展望台>
住所:三重県志摩市阿児町鵜方875-20
駐車場あり(無料)
英虞湾が一望できる展望台のひとつで、標高は200mほど。
四方を見渡すことが出来る展望台で、遊歩道が整備され何ヶ所かの展望台
があります。
今年初めの日記に書きましたが、ここへは初日の出を見るために訪問しました。
多くの方がここに初日の出を見に来ていました。
英虞湾越しに見る日の出はとても良いです(^-^)
<横山展望台>
<平成27年初日の出>
平成26年・27年 年末年始の旅
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<横山展望台>
住所:三重県志摩市阿児町鵜方875-20
駐車場あり(無料)
英虞湾が一望できる展望台のひとつで、標高は200mほど。
四方を見渡すことが出来る展望台で、遊歩道が整備され何ヶ所かの展望台
があります。
今年初めの日記に書きましたが、ここへは初日の出を見るために訪問しました。
多くの方がここに初日の出を見に来ていました。
英虞湾越しに見る日の出はとても良いです(^-^)
<横山展望台>
<平成27年初日の出>
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2015年01月16日
伊勢平氏発祥の地 (三重県津市)
三重県津市にある伊勢平氏発祥の地に行ってきました。
<伊勢平氏発祥の地>
住所:三重県津市産品1400-37-1
駐車場無し
<現地解説>
「忠盛塚」ともいわれているが、正式には「平氏発祥伝説地」という。
この塚は平忠盛が生まれたとき胞衣を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛
が産湯を使ったと言われる産湯行けも残っている。
桓武天皇の曾孫高望王を祖とする平氏は初め東国に上陸し勢力を張っていた。
しかし、平将門の乱・平忠常の乱以後、東国は源治の地盤となり、貞盛の
子惟衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり、1006年惟衡は
伊勢守に任じられている。
『平家物語』に、田舎武士の昇進を寝たんだ公卿が「伊勢瓶子は素甕なり」
とはやしあざけったとある。惟衡の曾孫正盛は白河法皇の寵を得て中央
政界に進出し、その子忠盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の
昇殿を許され平氏繁栄の基礎をつくったのである。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊勢平氏発祥の地に行ってきました。
ここは上の解説にもありますが、平清盛の父忠盛生誕の地です。
平忠盛が生まれた時に使った胞衣を埋めた胞衣塚があります。
平氏は忠盛以前から伊勢にいたわけですが、忠盛が武士として初の昇殿を許される
まで昇進した事で、伊勢平氏=忠盛という様な事になったようです。
その忠盛も三位以上である公卿にはなれず、子の清盛の代になり公卿どころか
太政大臣まで出世するんですからすごい話です。
伊勢平氏発祥の地には胞衣塚と「伊勢平氏発祥の地」という碑が建っています。
平成26年・27年 年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/411697633.html
大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html
<伊勢平氏発祥の地>
住所:三重県津市産品1400-37-1
駐車場無し
<現地解説>
「忠盛塚」ともいわれているが、正式には「平氏発祥伝説地」という。
この塚は平忠盛が生まれたとき胞衣を埋めた「胞衣塚」ともいわれ、忠盛
が産湯を使ったと言われる産湯行けも残っている。
桓武天皇の曾孫高望王を祖とする平氏は初め東国に上陸し勢力を張っていた。
しかし、平将門の乱・平忠常の乱以後、東国は源治の地盤となり、貞盛の
子惟衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり、1006年惟衡は
伊勢守に任じられている。
『平家物語』に、田舎武士の昇進を寝たんだ公卿が「伊勢瓶子は素甕なり」
とはやしあざけったとある。惟衡の曾孫正盛は白河法皇の寵を得て中央
政界に進出し、その子忠盛は正四位下但馬守に進み、武士として最初の
昇殿を許され平氏繁栄の基礎をつくったのである。
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伊勢平氏発祥の地に行ってきました。
ここは上の解説にもありますが、平清盛の父忠盛生誕の地です。
平忠盛が生まれた時に使った胞衣を埋めた胞衣塚があります。
平氏は忠盛以前から伊勢にいたわけですが、忠盛が武士として初の昇殿を許される
まで昇進した事で、伊勢平氏=忠盛という様な事になったようです。
その忠盛も三位以上である公卿にはなれず、子の清盛の代になり公卿どころか
太政大臣まで出世するんですからすごい話です。
伊勢平氏発祥の地には胞衣塚と「伊勢平氏発祥の地」という碑が建っています。
平成26年・27年 年末年始の旅
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大河ドラマの舞台
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2013年10月16日
福蔵寺 / 織田信孝の墓 (三重県亀山市)
三重県亀山市、関の町並みの中にある福蔵寺に行ってきました。
<福蔵寺>
住所:三重県亀山市関町木崎417
駐車場(関の観光駐車場利用)
織田信長の三男、織田信孝公は本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、
神戸の住人旧臣大塚左エ衛門長政に命じ、この寺の創建にかかりました。
しかし信孝公は羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正11年尾張の国
野間に於いて自害させられてしまったので長政が当山に首を持参し信孝公の
菩提寺としました。
<織田信孝の墓>
この墓は信孝公の墓石不詳のため、400年忌を迎えた時、菩提を弔う
ため建立したものです。
本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
関の町並みの中にある福蔵寺に行ってきました。
入り口に織田信孝卿菩提所という文字があったので、引き込まれました。
上の説明にあるように、墓石が不明との事で、最近造られた墓石が
ありました。
織田信孝は秀吉との争いの中で、自刃させられたもので、悲劇の人物です。
織田信雄の様に凡庸ならば生き残れたのかもしれませんが・・・。
織田信孝の墓は、自刃した尾張野間にも残されています。
<尾張 野間大坊>
http://rover.seesaa.net/article/141551889.html
平成25年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/372055300.htm
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
<福蔵寺>
住所:三重県亀山市関町木崎417
駐車場(関の観光駐車場利用)
織田信長の三男、織田信孝公は本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、
神戸の住人旧臣大塚左エ衛門長政に命じ、この寺の創建にかかりました。
しかし信孝公は羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正11年尾張の国
野間に於いて自害させられてしまったので長政が当山に首を持参し信孝公の
菩提寺としました。
<織田信孝の墓>
この墓は信孝公の墓石不詳のため、400年忌を迎えた時、菩提を弔う
ため建立したものです。
本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。
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関の町並みの中にある福蔵寺に行ってきました。
入り口に織田信孝卿菩提所という文字があったので、引き込まれました。
上の説明にあるように、墓石が不明との事で、最近造られた墓石が
ありました。
織田信孝は秀吉との争いの中で、自刃させられたもので、悲劇の人物です。
織田信雄の様に凡庸ならば生き残れたのかもしれませんが・・・。
織田信孝の墓は、自刃した尾張野間にも残されています。
<尾張 野間大坊>
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平成25年夏旅
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著名人の墓
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2011年10月28日
長島城跡 (三重県桑名市)
三重県桑名市にある長島城趾に行ってきました。
<長島城趾>
住所:三重県桑名市長島町西外面2188
駐車場あり
1245年、藤原道家が長島城をこの地にはじめて造り、ついで
1482年、伊勢国安濃部長野の伊藤重晴が再建しました。
元亀・天正(1570〜1574)の頃、一向宗がこの城において
織田信長と交戦しました。
1702年増山正弥が長島城に移り、明治4年廃城に至まで
8代175年間に及びました。長島と言えば増山氏2万石の城下町
として知られています。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県桑名市の長島城跡に行ってきました。
うえの解説に、長島と言えば増山氏とありますが、これは現地解説
です。僕の中のイメージでは長島といえば長島の一向一揆です。
織田信長との壮絶な戦い、最後は信長が一向一揆を皆殺しにする
というのがものすごくインパクトある戦国の事件かと思っています。
今、その長島城はというと、敷地のほとんどが長島中部小学校、
長島中学校の敷地になっています。
長島中部小学校の校庭にある大松は樹齢300年超。
江戸時代の長島城をしのぶ大松です。
それ以外は特にこれといったものは見あたりません。
近くにある蓮生寺というお寺に大手門が移築されて残っているそうですが、
今回は知らずに行きませんでした(>_<)
長島中部小学校では少年が野球をしていて、のどかな雰囲気でした。
平成23年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/220709348.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<長島城趾>
住所:三重県桑名市長島町西外面2188
駐車場あり
1245年、藤原道家が長島城をこの地にはじめて造り、ついで
1482年、伊勢国安濃部長野の伊藤重晴が再建しました。
元亀・天正(1570〜1574)の頃、一向宗がこの城において
織田信長と交戦しました。
1702年増山正弥が長島城に移り、明治4年廃城に至まで
8代175年間に及びました。長島と言えば増山氏2万石の城下町
として知られています。
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三重県桑名市の長島城跡に行ってきました。
うえの解説に、長島と言えば増山氏とありますが、これは現地解説
です。僕の中のイメージでは長島といえば長島の一向一揆です。
織田信長との壮絶な戦い、最後は信長が一向一揆を皆殺しにする
というのがものすごくインパクトある戦国の事件かと思っています。
今、その長島城はというと、敷地のほとんどが長島中部小学校、
長島中学校の敷地になっています。
長島中部小学校の校庭にある大松は樹齢300年超。
江戸時代の長島城をしのぶ大松です。
それ以外は特にこれといったものは見あたりません。
近くにある蓮生寺というお寺に大手門が移築されて残っているそうですが、
今回は知らずに行きませんでした(>_<)
長島中部小学校では少年が野球をしていて、のどかな雰囲気でした。
平成23年夏旅
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日本の城を巡る
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2011年10月26日
神戸城 (三重県鈴鹿市)
三重県鈴鹿市にある神戸城に行ってきました。
<神戸城>
住所:三重県鈴鹿市神戸本多町
駐車場あり(無料)
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代飯野寺家町の地に沢城を
築いたが、戦国時代の1550年にはこの地に神戸城を築いて移った。
神戸氏七代目友盛は、北勢に威をふるったが、信長軍の侵攻により1568
年その三男信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は1580年、ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。
しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で
自刃し、1595年には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて
天守閣は造られず石垣だけ残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て1732年本多忠統が
入国する。
本多氏の治世は140年間続き、1875年城は解体される。
その後堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。
天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことが出来る <現地解説より>
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
久しぶりに神戸城に行ってきました。今回で二回目の訪問です。
神戸城とは言っても神戸市にあるわけじゃなく、三重県鈴鹿市に
あり、読み方も「かんべじょう」と読みます。
歴史好きなら、神戸信孝の居城ってな感じで知ってるお城です。
現地は神戸高校のとなりにあります。もともとの神戸城の敷地は
神戸高校の一部になっているようです。
建物は無く、石垣のみ残るお城。公園風に簡単に整備されています。
うえの解説にもありますが、悲運の武将神戸信孝(織田信孝)を
しのぶ古城です。
城の片隅に石碑がありました。
石碑には勤王烈士 吉川治太夫とあります。
幕末の志士のようですが、どんな人物か僕は知りません。
調べてみると、天誅組の人物ではありませんが、関わった人物の
様です。
平成23年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/220709348.html
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
<神戸城>
住所:三重県鈴鹿市神戸本多町
駐車場あり(無料)
伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は南北朝時代飯野寺家町の地に沢城を
築いたが、戦国時代の1550年にはこの地に神戸城を築いて移った。
神戸氏七代目友盛は、北勢に威をふるったが、信長軍の侵攻により1568
年その三男信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は1580年、ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。
しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で
自刃し、1595年には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて
天守閣は造られず石垣だけ残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て1732年本多忠統が
入国する。
本多氏の治世は140年間続き、1875年城は解体される。
その後堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。
天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことが出来る <現地解説より>
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久しぶりに神戸城に行ってきました。今回で二回目の訪問です。
神戸城とは言っても神戸市にあるわけじゃなく、三重県鈴鹿市に
あり、読み方も「かんべじょう」と読みます。
歴史好きなら、神戸信孝の居城ってな感じで知ってるお城です。
現地は神戸高校のとなりにあります。もともとの神戸城の敷地は
神戸高校の一部になっているようです。
建物は無く、石垣のみ残るお城。公園風に簡単に整備されています。
うえの解説にもありますが、悲運の武将神戸信孝(織田信孝)を
しのぶ古城です。
城の片隅に石碑がありました。
石碑には勤王烈士 吉川治太夫とあります。
幕末の志士のようですが、どんな人物か僕は知りません。
調べてみると、天誅組の人物ではありませんが、関わった人物の
様です。
平成23年夏旅
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日本の城を巡る
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伊勢上野城 (三重県津市)
三重県津市にある伊勢上野城に行ってきました。
<伊勢上野城>
住所:三重県津市河芸町上野
駐車場あり(無料)
上野城跡は東西約250m、南北約550mの規模で、城の主郭の周囲には
かつて土塁や堀切で区画された郭がとりまき、主郭の東側には幅が20m近い
空堀があったと言われています。
上野城の築城時期は明かではないですが、1548年の記録に分部氏から
三間氏にこの城が預けられた事が記されています。
その後、1568年に織田信長軍の伊勢侵攻があり、信長の弟信包が一時
この城に入り、分部氏は信包に仕えました。信包が1580年に安濃津城に
移ると、分部氏が入ったと考えられます。
その信包が治めたころ、お市とその娘の三姉妹(茶々、初、江)が
いたと言われています。
1594年に信包が近江に移ったあとは分部氏は秀吉、家康に仕えて加増
を重ね大名となりましたが、1619年に近江国大溝へ転封となり、それ
とともに廃城となりました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
伊勢上野城に行ってきました。
今年の大河ドラマ「お江」ゆかりの地という事で訪問しました。
伊勢湾を眺めおろす小高い丘の上にある城跡です。
現在は当時を偲ぶ事が出来るものは特に残っていません。
城跡は公園になっていて、本丸跡には展望台も兼ねた建物が
建っていました。
本丸跡
二の丸跡
伊勢上野城からの景色
上の写真からは分かりづらいですが、伊勢湾が見えます。
大河ドラマでは、ここから伊勢の海を見たという事になってましたね(^-^)
平成23年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/220709348.html
大河ドラマの舞台
http://rover.seesaa.net/article/112515106.html
日本の城を巡る
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<伊勢上野城>
住所:三重県津市河芸町上野
駐車場あり(無料)
上野城跡は東西約250m、南北約550mの規模で、城の主郭の周囲には
かつて土塁や堀切で区画された郭がとりまき、主郭の東側には幅が20m近い
空堀があったと言われています。
上野城の築城時期は明かではないですが、1548年の記録に分部氏から
三間氏にこの城が預けられた事が記されています。
その後、1568年に織田信長軍の伊勢侵攻があり、信長の弟信包が一時
この城に入り、分部氏は信包に仕えました。信包が1580年に安濃津城に
移ると、分部氏が入ったと考えられます。
その信包が治めたころ、お市とその娘の三姉妹(茶々、初、江)が
いたと言われています。
1594年に信包が近江に移ったあとは分部氏は秀吉、家康に仕えて加増
を重ね大名となりましたが、1619年に近江国大溝へ転封となり、それ
とともに廃城となりました。
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伊勢上野城に行ってきました。
今年の大河ドラマ「お江」ゆかりの地という事で訪問しました。
伊勢湾を眺めおろす小高い丘の上にある城跡です。
現在は当時を偲ぶ事が出来るものは特に残っていません。
城跡は公園になっていて、本丸跡には展望台も兼ねた建物が
建っていました。
本丸跡
二の丸跡
伊勢上野城からの景色
上の写真からは分かりづらいですが、伊勢湾が見えます。
大河ドラマでは、ここから伊勢の海を見たという事になってましたね(^-^)
平成23年夏旅
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日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
2011年10月25日
四天王寺 (三重県津市)
三重県津市にある四天王寺に行ってきました。
<四天王寺>
住所:三重県津市栄町1丁目892
駐車場あり(無料)
境内自由
四天王寺の創建は古く、推古天皇の勅願で聖徳太子が建立したと伝えられます。
仏法の戦いで、物部守屋を倒した蘇我馬子・聖徳太子は、戦いに勝利したならば
寺を建立すると願をかけ勝利したと言われています。
戦いののち、建てられた四天王寺のうちのひとつがこのお寺です。
その後兵火などで焼失しましたが1619年に藤堂高虎が改築。
1637年に藤堂高次が寺領を寄進しました。
現在の建物は太平洋戦争で焼失後に再建されたものです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の四天王寺に行ってきました。
行った理由は、寺の由緒もそうですが、織田信長の母である土田御前の墓が
あるという事で行ってみました。
<土田御前の墓>
土田御前は本能寺の変の時安土城にいました。
その後、信雄・信包をたより1594年に亡くなり四天王寺に葬られました。
もうひとつ、土田御前の墓と並ぶようにあったのが藤堂高虎夫人、久芳夫人の墓です。
<藤堂高虎夫人の墓>
久芳夫人は1616年にこの地で亡くなり、四天王寺に葬られました。
歴史あるお寺で、とても満足しました。
寺の片隅にこんな石碑。
「土俵人生がぶりより」
琴風関の碑でした。琴風好きだったんですよね(^-^)
このお寺と何か関係あるのかな??
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
平成23年夏旅
http://rover.seesaa.net/article/220709348.html
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<四天王寺>
住所:三重県津市栄町1丁目892
駐車場あり(無料)
境内自由
四天王寺の創建は古く、推古天皇の勅願で聖徳太子が建立したと伝えられます。
仏法の戦いで、物部守屋を倒した蘇我馬子・聖徳太子は、戦いに勝利したならば
寺を建立すると願をかけ勝利したと言われています。
戦いののち、建てられた四天王寺のうちのひとつがこのお寺です。
その後兵火などで焼失しましたが1619年に藤堂高虎が改築。
1637年に藤堂高次が寺領を寄進しました。
現在の建物は太平洋戦争で焼失後に再建されたものです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の四天王寺に行ってきました。
行った理由は、寺の由緒もそうですが、織田信長の母である土田御前の墓が
あるという事で行ってみました。
<土田御前の墓>
土田御前は本能寺の変の時安土城にいました。
その後、信雄・信包をたより1594年に亡くなり四天王寺に葬られました。
もうひとつ、土田御前の墓と並ぶようにあったのが藤堂高虎夫人、久芳夫人の墓です。
<藤堂高虎夫人の墓>
久芳夫人は1616年にこの地で亡くなり、四天王寺に葬られました。
歴史あるお寺で、とても満足しました。
寺の片隅にこんな石碑。
「土俵人生がぶりより」
琴風関の碑でした。琴風好きだったんですよね(^-^)
このお寺と何か関係あるのかな??
著名人の墓
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平成23年夏旅
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2011年10月20日
本多忠勝廟 (三重県桑名市)
三重県桑名市にある本多忠勝廟に行ってきました。
<本多忠勝廟>
住所:三重県桑名市清水町45
駐車場あり(無料)
三重県桑名市にある本多忠勝廟に行ってきました。
浄土寺というお寺にあります。
浄土寺は1049年創建の古刹ですが、今は古い建物は無く、
お寺という感じがあまりしないところでした。
桑名藩主本多氏の菩提寺で、本多忠勝が没したときに浄土寺に
葬られ、本多忠勝公本廟になりました。
近くに行っても特に案内板とかあるわけでもなく、気付きにくい
ところです。桑名と言えば本多忠勝が有名ですから、ここも
立ち寄ってみたいところです。
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
平成23年夏旅
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<本多忠勝廟>
住所:三重県桑名市清水町45
駐車場あり(無料)
三重県桑名市にある本多忠勝廟に行ってきました。
浄土寺というお寺にあります。
浄土寺は1049年創建の古刹ですが、今は古い建物は無く、
お寺という感じがあまりしないところでした。
桑名藩主本多氏の菩提寺で、本多忠勝が没したときに浄土寺に
葬られ、本多忠勝公本廟になりました。
近くに行っても特に案内板とかあるわけでもなく、気付きにくい
ところです。桑名と言えば本多忠勝が有名ですから、ここも
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2011年01月23日
津城 (三重県津市)
三重県津市にある津城跡に行ってきました。
<津城跡>
住所:三重県津市丸之内
駐車場なし
入城自由
津城は織田信長の弟の信包によって築城された。1580年に五層の天守閣が完成
し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。
その後、富田氏が城主となり、1600年関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け
津の町は戦火にあい、荒廃した。
1608年に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を
高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。
そして城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた
伊勢街道を城下町に引き入れ、町の発展に努めた。
また城下町の東の端に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の
外側の守りとした。また堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線と
した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の津城跡に行ってきました。
だいぶ前に一回だけ行ったことがあり、久々の訪問です。
津城には藤堂高虎の銅像があったのを覚えていたので、藤堂高虎の築城
かと思っていたんですが、実は織田信包の築城でした。
今年の大河ドラマ『江』で、お江は織田信包のもとに保護されていたという
事で、津市はお江ゆかりの地という事になっているようです。
現地にはこんな旗が。ゴーちゃんとかいうゆるキャラまで出来てました(^^;
ゴーとかいうと、郷ひろみかと思ってしまいます(^^;;;;
さて、城は藤堂高虎の普請により大きな石垣がそびえ、壮観です。
石垣の上に登ると、かなり高くて怖い感じです。
城内は公園になっており、庭園など整備されていました。
日本の城を巡る
http://rover.seesaa.net/article/21222307.html
平成22年〜23・年末年始の旅
http://rover.seesaa.net/article/178174721.html
銅像めぐり
http://rover.seesaa.net/article/142026310.html
にほんブログ村
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<津城跡>
住所:三重県津市丸之内
駐車場なし
入城自由
津城は織田信長の弟の信包によって築城された。1580年に五層の天守閣が完成
し、それまで柳山あたりにあった町屋が移されて城下町が作られた。
その後、富田氏が城主となり、1600年関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍の攻撃を受け
津の町は戦火にあい、荒廃した。
1608年に藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、本丸の北側を広げて石垣を
高くして、両端に櫓を新築したり内堀・外堀とも整備したりするなど大改修を加えた。
そして城を中心に北・西・南に武家屋敷を、東には町屋を置き、町外れを通っていた
伊勢街道を城下町に引き入れ、町の発展に努めた。
また城下町の東の端に堀川を掘り、船を入れて商業発展に利用するとともに、城下の
外側の守りとした。また堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合の防御の最前線と
した。
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三重県津市の津城跡に行ってきました。
だいぶ前に一回だけ行ったことがあり、久々の訪問です。
津城には藤堂高虎の銅像があったのを覚えていたので、藤堂高虎の築城
かと思っていたんですが、実は織田信包の築城でした。
今年の大河ドラマ『江』で、お江は織田信包のもとに保護されていたという
事で、津市はお江ゆかりの地という事になっているようです。
現地にはこんな旗が。ゴーちゃんとかいうゆるキャラまで出来てました(^^;
ゴーとかいうと、郷ひろみかと思ってしまいます(^^;;;;
さて、城は藤堂高虎の普請により大きな石垣がそびえ、壮観です。
石垣の上に登ると、かなり高くて怖い感じです。
城内は公園になっており、庭園など整備されていました。
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2009年07月25日
成覚寺 (三重県津市)
三重県津市の成覚寺に行ってきました。
<成覚寺>
住所:三重県津市芸濃町河内1094
駐車場無し
1184年屋島の戦いで敗れた平維盛公は那智沖で入水したように
見せかけて当地に三十一人の家来と共に隠れ住みました。
そして念持仏である三尊仏をご本尊として一宇を建立し清運寺と名付
け1210年に53才で没しました。
真言宗より禅宗となり1587年真言高田派に転派し、お墓も真言
形式にしました。
寺号も維盛公の法号(成覚院岩間浄圓)により、
岩間山成覚寺となりました。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の奥地に平家最後の当主平維盛の墓がありました。
以前、和歌山の補陀洛山寺に行ったときに、お寺の裏に平維盛
公のお墓があったのを思い出しました。
また歴史の一説なんでしょうけど、実は平維盛は死んでいなかったと
いうネタです。
この地に逃れてきて生き延びたっていう話なんですね。
確かにこのお寺の裏には平維盛公のお墓がありました。
小さなお寺で気がつかないようなところですが、歴史好きにはおすす
めスポットです。
平成21年海の日の旅
http://rover.seesaa.net/article/123900335.html
著名人の墓
http://rover.seesaa.net/article/26837973.html
<成覚寺>
住所:三重県津市芸濃町河内1094
駐車場無し
1184年屋島の戦いで敗れた平維盛公は那智沖で入水したように
見せかけて当地に三十一人の家来と共に隠れ住みました。
そして念持仏である三尊仏をご本尊として一宇を建立し清運寺と名付
け1210年に53才で没しました。
真言宗より禅宗となり1587年真言高田派に転派し、お墓も真言
形式にしました。
寺号も維盛公の法号(成覚院岩間浄圓)により、
岩間山成覚寺となりました。
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三重県津市の奥地に平家最後の当主平維盛の墓がありました。
以前、和歌山の補陀洛山寺に行ったときに、お寺の裏に平維盛
公のお墓があったのを思い出しました。
また歴史の一説なんでしょうけど、実は平維盛は死んでいなかったと
いうネタです。
この地に逃れてきて生き延びたっていう話なんですね。
確かにこのお寺の裏には平維盛公のお墓がありました。
小さなお寺で気がつかないようなところですが、歴史好きにはおすす
めスポットです。
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著名人の墓
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河内渓谷 (三重県津市)
三重県津市の河内渓谷に行ってきました。
<河内渓谷>
住所:三重県津市芸濃町河内
駐車所あり(長徳寺駐車場に駐車OKとの事です)
石山観音から名阪に戻ろうと走っていたところ、渓谷の看板を
発見。車を停めて立ち寄ってみました。
カーナビ上にも「門前が淵」の名で景勝地マークが表示されて
いました。そこには長徳寺というお寺があり、そこから門前の名
がきているのかもしれません。
渓谷は緑溢れる綺麗な渓谷でした。木々の様子から秋の紅葉も良さそう
な感じです。
平成21年海の日の旅
http://rover.seesaa.net/article/123900335.html
<河内渓谷>
住所:三重県津市芸濃町河内
駐車所あり(長徳寺駐車場に駐車OKとの事です)
石山観音から名阪に戻ろうと走っていたところ、渓谷の看板を
発見。車を停めて立ち寄ってみました。
カーナビ上にも「門前が淵」の名で景勝地マークが表示されて
いました。そこには長徳寺というお寺があり、そこから門前の名
がきているのかもしれません。
渓谷は緑溢れる綺麗な渓谷でした。木々の様子から秋の紅葉も良さそう
な感じです。
平成21年海の日の旅
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石山観音 (三重県津市)
三重県津市にある石山観音に行ってきました。
<石山観音>
住所:三重県津市芸濃町楠原
駐車場あり(無料)
山全体がひとつの岩になっており、そのところどころに40体余り
の石仏が深く彫りつけられているが、その多くが観音像であるので
石山観音と言う。
しかしこれら観音像よりは阿弥陀如来立像や地蔵菩薩像の方が
古いようで形も大きく聖観音立像を含めて三点が県文化財に指定
されている。
その沿革については不明であるが、美術史の上から鎌倉時代の終わり
ころから造り始められたものと思われる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の石山観音に行ってきました。
名阪国道関ICからほど近いところで、何度も走ったことはありまし
たが、ここに立ち寄るのは今回が初めてです。
昭文社の地図に、その景色は圧巻みたいな事が書いてあったので、
期待して行ってみました。
石山観音公園という形になっていて、入口から岩山を1周するような
コースで見学時間は30〜40分くらいです。
大きな石仏が4〜5体(大きさ3〜4メートル)、その他は小さな
石仏です。
岩山中に石仏が彫り込まれた光景は、非常に神秘的。
信仰の山だったんでしょうね。
岩山なので危険なところもあります。靴はスニーカーなどで行きましょう。
ここなんか、落ちたら完全に終了です・・・。
平成21年海の日の旅
http://rover.seesaa.net/article/123900335.html
<石山観音>
住所:三重県津市芸濃町楠原
駐車場あり(無料)
山全体がひとつの岩になっており、そのところどころに40体余り
の石仏が深く彫りつけられているが、その多くが観音像であるので
石山観音と言う。
しかしこれら観音像よりは阿弥陀如来立像や地蔵菩薩像の方が
古いようで形も大きく聖観音立像を含めて三点が県文化財に指定
されている。
その沿革については不明であるが、美術史の上から鎌倉時代の終わり
ころから造り始められたものと思われる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
三重県津市の石山観音に行ってきました。
名阪国道関ICからほど近いところで、何度も走ったことはありまし
たが、ここに立ち寄るのは今回が初めてです。
昭文社の地図に、その景色は圧巻みたいな事が書いてあったので、
期待して行ってみました。
石山観音公園という形になっていて、入口から岩山を1周するような
コースで見学時間は30〜40分くらいです。
大きな石仏が4〜5体(大きさ3〜4メートル)、その他は小さな
石仏です。
岩山中に石仏が彫り込まれた光景は、非常に神秘的。
信仰の山だったんでしょうね。
岩山なので危険なところもあります。靴はスニーカーなどで行きましょう。
ここなんか、落ちたら完全に終了です・・・。
平成21年海の日の旅
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2009年07月23日
石薬師寺 (三重県鈴鹿市)
三重県鈴鹿市の石薬師寺に行ってきました。
<石薬師寺>
住所:三重県鈴鹿市石薬師町1
駐車場あり(無料)
境内自由
寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。
戦国の戦火のあと、神戸城主一柳監物により、1629年再建され
た。建物の規模は桁行き三間、梁間四間、寄せ棟造り。
本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で190センチの高さ。
弘法大師が地面生え抜きの石にきざんだというもの。
普段は秘仏で、12月20日のすす払いで洗い清められる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石薬師寺にも約10年振りにいってきました。
東海道石薬師宿の名前の由来にもなったお寺です。国道1号線沿い
にあり、年に何度も前は通りますが立ち寄ったのは実に10年ぶり
となりました。
ここはよく覚えていました。境内には浮世絵の石薬師宿の絵がある
ところなどよく覚えていました。
国道沿いにありますが、緑も多く寺の境内は静寂すら感じます。
名前の由来になった石薬師は見ることが出来ませんが、お寺だけ
でも立ち寄る価値があるかと思います。
平成21年海の日の旅
http://rover.seesaa.net/article/123900335.html
<石薬師寺>
住所:三重県鈴鹿市石薬師町1
駐車場あり(無料)
境内自由
寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。
戦国の戦火のあと、神戸城主一柳監物により、1629年再建され
た。建物の規模は桁行き三間、梁間四間、寄せ棟造り。
本瓦葺きで一間の向拝がつく。市内最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で190センチの高さ。
弘法大師が地面生え抜きの石にきざんだというもの。
普段は秘仏で、12月20日のすす払いで洗い清められる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
石薬師寺にも約10年振りにいってきました。
東海道石薬師宿の名前の由来にもなったお寺です。国道1号線沿い
にあり、年に何度も前は通りますが立ち寄ったのは実に10年ぶり
となりました。
ここはよく覚えていました。境内には浮世絵の石薬師宿の絵がある
ところなどよく覚えていました。
国道沿いにありますが、緑も多く寺の境内は静寂すら感じます。
名前の由来になった石薬師は見ることが出来ませんが、お寺だけ
でも立ち寄る価値があるかと思います。
平成21年海の日の旅
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